米中関係を外交史の視点から読む
出版日2022年4月20日
書誌名GGR Working Paper No.1
著者名石塚英樹
要旨 米中関係を長期的なスパンで客観的に見た場合、一般的に焦点が当てられる「対立」的側面以外にもさまざまな要因が確認できる。本稿は、外交文書を丁寧に読み解き、実態としての米中関係を捉えることの重要性を指摘する。公式文書から見られる米中双方にとっての「核心的利益」の一致点と相違点はなにか、米中関係を見る際に我々の目を曇らせる「バイアス」とはなにか、そして日中関係に先駆けた米中関係とはどういったものであったのか。本稿は、史実をもとにこれらの疑問に解を与えている。
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米中関係を外交史の視点から読む

石塚 英樹

(一橋大学法学研究科 / 国際・公共政策大学院 教授)

2022年4月20日

 

第1節 問題設定と考察の枠組み

問題意識

最近世論の関心も高い時事問題でもある米中関係については、対立の相で見られることが多いが、米中双方の公式発表をみても米中には「対立」[1]や“diverge”[2]があることが示されている。他方、歴史的スパンで考えると、米中関係には対立のほかに、様々な関係性の要素があることが発見できるであろう。

こうした関係性の要素を分析するにあたり、「日本はアジア・中国に先駆けて近代化した」という日本人には周知の記述や、日本と中国には「漢字文化圏」という共通基盤があるという文明史的な視点があまりに強調されれば、一種のバイアスが生じ、米国と中国が近代国際社会の形成において深いつながりがあり、日本より長い近代外交上の関係史を有していたことについて見逃してしまうことになろう。

バイアスを避けるためには、史料を正確に読んで正確に理解しなければならないが、本日は、時論にはなかなか入ってこない米中関係史の多様な諸側面、とくに日本人が見落としがちな米中の長く深い関係性はどこから来たかを史料とともに検討してみたい。

 

「外交史」の枠組みとは?

まず、ここで、外交史がもつスコープ、視野について述べたいと思う。一橋大学で「中国外交史」の講義を受け持つにあたり、中国外交史とは何かというスコープをはっきりと示すために、坂野正高先生の代表的論文の一つである『外交交渉における清末官人の行動様式』を参照・引用した。坂野先生は、同論文の中で中国外交史研究としてのスコープについて、このように非常に注意深く論じている。

 

筆者の意図は、先進資本主義諸国によって近代国際社会の中へ強制的に編入された中国が、これに対してどのように抵抗し適応し、これをどのように受容していったかを考察するにある。近代国際社会の全機構の視点からのこの問題の取上げ方もありうるが、筆者は、主として中国側からの問題として、いわば外交史として取上げる。その場合にも種々の観点がありうるが、主として外交当局者の問題として取上げる。その場合にも種々の観点がありえようが、外政機構の現実の動きの問題として考えてみたい。それを主として直接に外交交渉の衝にあたる官人を主体としてとらえ、彼等が外政の担い手として事にあたる場合に、北京と外国側との間にあってどのように行動する傾向を示したか、という面からみたい[3]

 

坂野先生は、「近代国際社会の全機構」というものがあることを示唆しているが、それを踏まえれば、「近代外交史」とは、「国際法体系」の成立ととともにある「近代」という世界の構造(「機構」)の時間的推移を、「国際社会」のひとつの機能としての外交という領域において記述することと解される。「中国外交史」の研究にあたっては、筆者としては、主として中国側からの問題の所在を、国家間の国際約束はじめ外交文書を基本的史料として、実証的に解明していくこととの立場をとりたいと考える。

 

外交の総合性

坂野先生の思考経路をみても、上の筆者の立場は、多様な外交史研究の一端にすぎない。この世界の構造の時間的変化には、政治外交史・覇権交代史のみならず、軍事史、経済・開発史、文化・思想史、それから交通・移住の歴史としての要素が含まれているが、そのアクターとしては古典的な国家主体とくに外交当局による外交から、政治、国際機関、そして団体・個人まで広がりを見せたのがこの近現代という時代であり、国家と人間が綾なすグローバルな国際関係の歴史として外交史というものは、スコープは広がりを見せてきたと考える。

たとえば、日々の外交を担う在外公館をモデルとしてみると、館長の下に、いわゆるハイポリティクスを見る政務班があり、おもに二国間関係を見るほかは、防衛班あり、経済班あり、経済協力班あり、広報文化班あり、領事班あり、広いスコープをもっている。こうした外交の総合性というものが、外交実務の面白みであるが、現代外交は、わかりやすく言えば国際間の「ヒト、モノ、カネ、情報、智慧」の流れをカバーしていると言える。

 

外交と歴史

「外交」は、条約などの国際約束はじめ外交文書の交換を基礎としており、政府の公式記録が比較的良く残されているので、文献読解・批評を手法とする「歴史学」による研究になじみやすいといえる。19世紀前半、清代の歴史学者である章学誠は「六経は皆、史なり」と述べて、儒教の経典は歴史的テキストであると述べたが、外交もまた、記録を残すという意味で、歴史を紡ぎ出しているということが言えると考える。

 

第2節 清末の米中関係史と日本

清末と幕末を結ぶ在北京外交団の「協力政策」

アヘン戦争やアロー戦争(第二次アヘン戦争)の結果、欧米列強との間で締結された諸条約に基づき、清国は不平等条約のもとで開国した。その一方で、英国はじめ欧米諸国は、清国との貿易を安定的に発展させるために、清国の決定的な内政的混乱を望まなかった。列強はそこで清国駐在の外交官を中心として、協調して不平等条約を梃子に列強の国益利権を伸ばす努力をする一面、清朝政府と協力してその開発(=「近代化」)を進める政策をとった。これが「協力政策」[4]といわれる。

この列強の対清政策である「協力政策」は、清朝政府としても、とくに清朝の統治強化のための科学・軍事技術導入の上でも利用すべきものであり、各国の外務省とならぶ「総理各国事務衙門」(Yamen for Foreign Affairs)を設置し、窓口とした[5]。列強は首都における「外交交渉」によって、清朝中央政府との調整をすれば、末端の各開港場での問題解決が可能であると考えたのである。

この波に乗ったのが李鴻章であり、太平天国の乱を列強の力を利用して巧みに乗り切り、欧米の技術に学んで体制を維持しようという「洋務運動」によって、「上からの近代化」[6]を行い清朝政府はしばしの命脈を保ったのである。

「近代的」な国際政治空間には、このように清朝が日本より早く入っていたといえるが、そのアジアにおける国際政治空間の形成において、米国、特にアンソン・バーリンゲーム駐清公使(Anson Burlingame、中国名は蒲安臣)のおこなった対清協力政策、とくに条約改正への協力が大きな役割をはたした。

「協力政策」のもと、北京に各国は在外公館を設置し、外交団が設置されたが、東アジアにおいて英米仏露等の当時の列強の勢力均衡がはかられた。これは、日本が外国の干渉が抑えられる中で明治維新を実行できた外部環境の一つであると考えられる。

当時の列強にとって、国際電信網の中国大陸への延伸は課題であったが、清朝政府はこれを拒んでおり、1868年7月のいわゆるバーリンゲーム条約第8条においては、米国は電信の敷設や鉱山開発など、強制にわたる干渉をしないことを打ち出した[7]。この反射的な効果として、1871年、東アジア最初の国際電信網は、デンマークの大北電信によって、ウラジオストック・長崎・上海租界という経路で設けられた[8]。近代的郵便制度が日本で確立されるのは1872年であるが、それに先立って国際電信網が敷設されたのである。また、1871年には、シンガポール・香港・上海租界・長崎が結ばれた[9]

 

日清国交樹立を支えた「協力体制」

このように、清末と幕末という時代は「協力政策」という国際政治的空間で結びついていたのである。

英米仏は、「協力体制」のもと、他のヨーロッパ諸国が清朝政府と条約を締結することをすすめた[10]。その情勢の中で、列強との間で形成された総理衙門という外交機関をカウンターパートとして、1871年、日本は、「日清修好条規」の締結を行った。

「日清修好条規」は日本の外交史上「初の対等条約」として記述されているが[11]、その後の清から発出された外交書簡の形式から見た対日外交は、いわゆる中華思想ともいわれる「天朝定制」とも極力整合性をはかろうとした形跡があり、「対等性」は外交文書によって丹念に検証する必要がある。これが、現在の筆者がとりくんでいる学術研究の課題であり、その一環として1878年駐日清国公使館開設時の外交官である黄遵憲が残した詩文の解釈についての研究論文を発表したところである[12]

日清両国が近代的な国際法による外交関係を結べたというのも、当時の北京において、清朝が国際法を受け入れ、英仏米ロによる近代的外交体制が確立していたからであるといえる。

 

日本の国際法受容も米清の協力体制が契機

1865年、清朝政府は、バーリンゲーム公使らのはたらきかけに応じて、国際法に関する書籍を総理衙門の附属組織である「同文館」から出版した。これが「万国公法」である。

これは「総理衙門大臣の求めに応じたバーリンゲームが、米国人宣教師のウィリアム・マーティン(W.A.P. Martin)によるヘンリー・ホイートン(Henry Wheaton)のElements of International Lawの漢訳を紹介したのが縁で実現したものである」[13]とされる。

江戸幕府は、これを直ちに輸入し、1865年訓点をつけて翻刻活用され、日本人が近代国際法を学習する端緒となった[14]。西周は、同時期に幕府からオランダに派遣されてライデン大学(Universiteit Leiden)サイモン・フィッセリング教授(Simon Vissering)について国際法を研究したが、その成果は、1868年7月にようやく「畢氏万国公法」として出版される[15]

 

日本の近代中国語(現代漢語)の発音の学習は英米に遅れる

日本ではたしかに漢字伝来以来、長い漢字による書写の伝統があるものの、北京官話の学習体制の確立は、明治維新後であることはあまり知られていない。

明治初期、日清の外交関係樹立にともない、外務省の「漢語学所」で近代的な語学教育をはじめるにあたり、幕府時代の長崎通詞を集めて教官にせざるを得なかったが、初期のテキストは「漢語跬歩」で発音は「南京口」あった[16]。鎖国時代、主に長崎貿易を担った江南商人との会話は南京方言で行われていたのである。琉球王国は清朝一代を通じて北京に留学生を送っていたが、その成果は本土の実際の語学教育にはほとんど伝わらなかったのである。本学図書館には、高等商業学校の蔵書であった当時の「漢語跬歩」が収められている。同書を見ると、発音の記述もなく、また、文法の説明もなく、語彙と短文をまとめたものであり、当時の中国語学習の困難さが思い知られる。

北京語の習得は、わが一橋大学(ならびに東京外国語大学)の沿革上の前身の一つといえる東京外国語学校において1876年にようやく開始されたが、その時の教科書が、1867年、北京で英国の駐清公使であったトーマス・ウェード(Thomas Wade)が著した「言語自邇集」であった[17]。ウェードは中国研究者であったが、ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)のあとに公使を継いで、北京に駐在したことが知られるが、ウェードは北京語の音韻をローマ字であらわすシステムを開発して、正確に中国語の発音を学ぶことが可能になった。これがいわゆるウェード式である。これをもとに、我が国の近代的な中国語学習は始まったのである[18]

公式には、外国人の中国語習得は清朝によって禁止されていたが、1844年米国が清国と結んだ望厦条約によって、外国人が中国語の本を買い、中国語を学ぶことが許されるようになったのである[19]

 

移民とキリスト教 中国からの大量の海外移民、米国からの宣教師の渡来

1844年には、フランスが清国と結んだ黄埔条約によって、外国人宣教師が貿易港でキリスト教を中国人に布教することが許された。宣教師の来訪はそれまでもあったが、1746年の清朝の禁教令が建前となっていた。その中で、イライジャ・コールマン・ブリッジマン(Elijah Coleman Bridgman)は初の米国人宣教師として中国研究にも貢献した[20]。キリスト教布教が契機となって、米国と中国との間では強力な人脈関係が形成された。

たとえば、このミッション系の学校から、近代中国最初の著名な海外留学生である容閎が育ち、1854年、エール大学を卒業した[21]。これも日本人に先立っている。

1872年から、清朝政府は、容閎の建言をいれて、米国への留学生派遣事業を開始する。日清戦争後の新政時代、民国初年の袁世凱時代まで、重用されることとなった[22]。一般に、清末から民国初年には日本留学生が重用されたことが強調されるが、米国留学生の歴史はより長く、インパクトを有した。この第一期の清国人米国留学生と引率の容閎を、当時米国公使をつとめた森有礼(これも本学ゆかりの人物である)が目撃し、その資質の高さにつき後年李鴻章に証言をしている[23]

また、バーリンゲームらによる協力体制がもたらしたのは、留学生のほか、中国からの米国への合法的移民だった。

米国は南北戦争後、奴隷解放とともに産業革命が急速に進み、大量の労働力を必要としていた。1868年、バーリンゲームは、米清間で条約を改正し、中国からの移民導入を推進しようし、また、清は同条約にもとづき、在米華人保護のために、米国において領事館を開設した[24]。これらの米国各地の華人社会の発展は、辛亥革命、そして、対日戦争期にいたるまで、大きな政治的役割を果たし、華僑虐待事件や移民排斥問題とたたかいながら、「中国のナショナリズムの醸成につながった」[25]と評されている。

 

第3節 「1949年中国白書」 国共対立と「伝統的友好」の苦悩

米中関係の歴史的な関係性について考察するにあたり、米国側からこの複雑な両国の関係性について叙述した「1949年中国白書」に触れたい。

中華人民共和国の成立前夜、ディーン・アチソン(Dean Acheson)国務長官の下で“United States Relations with China”(いわゆる『1949年中国白書』、以下『白書』)が作成され、それまでの中国政策のレビューと中国大陸撤退にいたる経緯について、1949年7月30日、国務省の報告書として大統領に提出された。同報告書は、米中関係史を考察するにあたって参照不可欠の文書であると思われる。不可欠という理由は、一つは、19世紀以来の米国の対中政策について一貫する「伝統的な原則」をはっきりとさせていることであり、米国の対中観を知るうえで不可欠であるという点である。また、もう一つは、原則はありながらも、当時の情勢によって原則と政策が矛盾をきたしたり、あるいは、原則どうしが内部で矛盾をきたすことを、かなりの透明性をもって記述しているところにある。もちろん、政府の報告書であってその立場を弁護するためのものであり、特に当時米国が敵対していたソ連との関係を含め史料として鵜呑みにはできない点もあるが、米国の対中政策がいかなる原則と情勢によってどのように意思決定され展開していくのかを知るうえでユニークな資料であることはたしかである。

特に、その総序であるアチソン国務長官からハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領にあてた「伝達書」は、エッセンスとなっており、米国の対中政策の「物語」として味読に足るものである。

同白書は、米国の対中政策を、アヘン戦争以来の歴史にさかのぼって祖述し、まずは、米国の伝統的対中政策を明らかにしている。「伝達書」によれば、「米国の対華政策の根本原則」とは、「内治不干渉、ならびに統一と領土保全との支持」であるとしている[26]

『白書』の本文では、以下のように詳述されている。

 

過去半世紀以上にわたって、米国の対華政策は二つの原則に基づいてきた。その第一の原則は商業上の機会均等であり、第二の原則は中国の領土保全、行政的保全および政治的独立を維持するにあった。時たま、米国は中国と近隣諸国間の特殊関係を容認したが、同時に中国が一強国または列強によって支配されることは、米華両国の利益に反するものと認め、かつ主張してきたのである。米国は中国の国内諸問題への不干渉政策を唱導してきた。中国人に対して、近代世界において彼らの諸要求に最適な政治制度を発展せしめるだけの事実を藉すべきだというのが米国の立場であった。また、米国は第三者の列強が、各国個別にせよ、共同にせよ、中国の内部混乱を利用して勢力拡大を図ることのないよう防止策を講じて來た。すでに長年にわたつて米国は安定した中国統治機構が発展しうる諸条件を創設することに関心を払ってきたのである。さらに対華関係において、国際法上一般に認められた諸法則に準拠し、紛争の平和的解決をはかるという原則を支持してきたのである[27]

 

続いて、ジョン・ヘイ(John Hay)の門戸開放宣言については、次のように特筆をしている。

即ち、1899年の米国のヘイ国務長官による「門戸開放宣言」は、列強に対して、その「勢力範囲または権益範囲」内で、他国国民の諸権利の平等を求めた。1900年7月、義和団事件の解決処理過程のなかで、ヘイは「中国の領土的、行政的実体を維持し」さらに「世界に対し、清朝との均等かつ公平なる通商の原則を擁護」する政策を宣言したとしている。

こうした「原則」がある一方で、同白書の中で、米国は、「内政不干渉」と「統一の支持」が矛盾をきたし、また、対日戦争遂行の方針ともその原則が矛盾をきたしてしまったことを認めている[28]。その説明にこの浩瀚な調書は費やされているのであるが、『白書』の内容をかいつまんでいえば、米国が国共の対立を調整する一種の内政干渉をおこなわなければ、中国の統一ははかれないということと解される。

この『白書』に示された米国政府の認識では、国民党政権は、主要な関心を共産党との権力争いに置き、米国参戦後は対日戦争は米国まかせにして、1943~44年に「打通作戦」など日本軍の反攻を許し、内政面では、その腐敗と怠慢によって中国国民の信頼を次第に失っていたと分析していたが、そのような状況にもかかわらず、米国は、国民政府が中国を代表する政府であるという「大義名分によって、全力をあげて援助を続けて来た。」[29]と表明している。

同『白書』は、日本の降伏後、米国は「伝統的友誼」を名分にして中国への戦後「復興計画」によって国民政府に援助を行ったが、国共内戦の勃発は、米国の外交努力によってもさけられなかったとしている。また、同『白書』は、その過程で、蒋介石・国民党政権に対する失望は深まり、また、中国共産党のソ連接近を警戒し、国共双方が協力できないことを見極めると、米国は中国の戦略的順位を下げ、大陸から手を引くこととなったと伝達書の中で論じている。

結局のところ、『白書』は端的に「われわれの援助は無駄であった」[30]とすら述べている。なぜなら、「中国における内戦の忌まわしい結果が米国政府の統制の範囲を超えていた」ので「米国が残したことがらも何一つそれに貢献しなかった」からであるとしている。

最後に、『白書』の伝達書は将来の見通しについてこのように述べている。

 

最後には中国の深遠な文明と民主主義的な個性主義とが必ず再び自らを主張し、そして、中国は外国の桎梏を破棄するであろう。中国におけるすべての発展は、今も将来もこの目標に向かって進むのであるから、これを我々は激励すべきであると、私は考えるものである[31]

 

現代の米中関係史について、米国側の立場の淵源はここにあることが知られるのであるが、アチソンの名による文書が、敬意を表しつつ独自の中国文明観を表明していたことに留意したい。

 

第4節 まとめ 外交史研究の役割

上記の史実を振り返れば、米中関係史には、時として深刻な対立や矛盾を含みながらも、双方の利害の一致による長期間の協力という要素があったこと、そして、その中で、米国側からは『白書』にあるような中国文明への敬意という要素があったことは注目に値すると考える。かかる伝統的な協力の要素は、米中間ではいわゆる「三つのコミュニケ」の文言にもうかがうことができる。

『白書』が苦悩を以って記述したような原則と情勢の矛盾の処理や、政策効果とコストの比較衡量の難しさは、変数が多く予測が難しい対外関係においてまさしく顕著であるが、実証的な外交史研究は、かかる微妙で複雑な事象の解明に光を与えるべきものと考える。

 


[1] たとえば、「当前,美方一些政客声称美国当初与中国接触和建交是为了改变中国,美国对华接触政策已全面失败,污蔑中国多年来欺骗美国,渲染意识形态对立,竭力鼓吹冷战思维。」楊潔篪(中央外事委員会主任)「尊重历史 面向未来 坚定不移维护和稳定中美关系」『新華社』(2020年8月17日)。

[2] たとえば、“As in previous discussions, the two leaders covered areas where our interests align, and areas where our interests, values, and perspectives diverge.” White House, “Readout of President Biden’s Virtual Meeting with President Xi Jinping of the People’s Republic of China,” (Nov. 16, 2021).

[3] 坂野正高『近代中国外交史研究』(岩波書店、1970年)、57頁。傍点はママ。原文は漢字に旧字体を用いる。

[4] 本項の「協力政策」に関する史実は、坂野正高『近代中国政治外交史-ヴァスコ・ダ・ガマから五四運動まで』(東京大学出版会、1973年)、第八章第三節「協力政策」ほか各節に従ったが、文責は筆者にある。

[5] 同書、265頁。

[6] 同書、270頁。

[7] 同書、290頁。

[8] KDDI社ホームページ https://time-space.kddi.com/au-kddi/20210825/3160

[9] 坂野、前掲書、1973年、296頁。

[10] 岡本隆司、箱田恵子編著『ハンドブック近代中国外交史-明清交替から満洲事変まで』(ミネルヴァ書房、2019年)、75頁上段。

[11] 国立公文書館ホームページ「明治4年(1871)、日本と清国は日清修好条規に調印しました。条約では相互に外交使節と領事を駐在させ、制限的な領事裁判権を認めることなどを定めました。その意味では日本が外国と結んだ最初の対等条約でした。」http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/diplomacy/index.html

[12] 石塚英樹「黄遵憲『日本雑事詩』の詩句の解釈について ― 定本第十首を中心として」『日本言語文化研究』第15巻(2021年)。https://doi.org/10.50939/nhhggbkkk.5.0_11

[13] 岡本・箱田、前掲書、75頁。

[14] 坂野、前掲書、1973年、279頁。

[15] 国立公文書館ホームページ「激動幕末」http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/33.html

[16] 邵艶「近代日本における中国語教育制度の成立」『神戸大学発達科学部研究紀要』第12巻第2(2005年)、142頁。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000613.pdf

[17] 同書、145頁。

[18] 余談だが、永井荷風は、1897年から1899年、本学の前身である高等商業学校の附属外国語学校清語科(東京外国語大学の前身)で中国語をまなんだ。

[19] 坂野、前掲書、1973年、180頁。

[20] 坂野、前掲書、1973年、191頁。

[21] 容宏『西学東漸記 容閎自伝(東洋文庫136)』(平凡社、1969年)、坂野正高解説、271頁。

[22] 坂野、前掲書、1973年、304頁。

[23] 容宏、前掲書、267頁。

[24] 岡本・箱田、前掲書、67頁。

[25] 同書、95頁。

[26] アメリカ国務省編(朝日新聞社訳)『中国白書-米国の対華関係』(朝日新聞社、1949年10月)、5頁。

[27] 同書、第一章一、序言、19頁。

[28] 同書、5頁。

[29] 同書、7頁。

[30] 同書、17頁。

[31] 同書、17頁。

 


引用・参考文献

アメリカ国務省編(朝日新聞社訳)『中国白書-米国の対華関係』(朝日新聞社、1949年)。

岡本隆司・箱田恵子編著『ハンドブック近代中国外交史-明清交替から満洲事変まで』(ミネルヴァ書房、2019年)。

邵艶「近代日本における中国語教育制度の成立」『神戸大学発達科学部研究紀要』第12巻第2号(2005年)、http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000613.pdf。(2022年2月13日閲覧)

坂野正高『近代中国外交史研究』(岩波書店、1970年)。

坂野正高『近代中国政治外交史-ヴァスコ・ダ・ガマから五四運動まで』(東京大学出版会、1973年)。

容閎(百瀬弘訳注、坂野正高解説)『西学東漸記 容閎自伝(東洋文庫136)』(平凡社、1969年)。

 

文献・参考資料

US Secretary of State, “The China white paper, August 1949”, Washington DC, 1949.

著者未詳『漢語跬歩』(出版年未詳)。

御幡雅文編『華語跬歩』(東亜同文会、1901年)。

 

謝辞

2月14日、一橋大学グローバル・ガバナンス研究センター(GGR)におきまして、GGR研究会の立ち上げにあたり、第一回研究会での発表という光栄な機会を私に与えていただき感謝申し上げます。

私は昨年4月に外務省を研究休職の上、実務家教員として法学研究科及び国際・公共政策大学院(IPP)に奉職し、中国外交史や日本の外交政策過程論などを担当しておりますが、このGGRの設立趣旨に賛同したいと思い発言を行いましたが、そこでの議論を踏まえ、当日の雑駁な発表内容をやや整理したのが本稿です。整理にあたり、同大学院・市原麻衣子教授ならびにGGRアシスタント・鈴木涼平氏のご協力をいただきました。文責は筆者にありますが、本稿は一年間の私なりの問題意識と研究の一端をまとめて、政府の見解からは離れて自由に管見を述べたところです。

 

石塚英樹 プロフィール

一橋大学大学院法学研究科、国際・公共政策大学院教授。外務省大臣官房外務事務官、在瀋陽日本国総領事館総領事、在広州日本国総領事館総領事を経て現在に至る。専門は外交史、国際協力、中国地域研究。出版物に、「ホリズム随想――ハンス・ケルゼンを手掛かりに」『ホリスティック学術協議会会報誌』16巻1号(2022年4月)1-8頁;「黄遵憲『日本雑事詩』の詩句の解釈について――定本第十首を中心として」『日本言語文化研究』5号(2021年12月)、11-22頁;「東北と広東の『三宝』」『日本言語文化研究』5号(2021年12月)、4-6頁などがある。