グローバルリスク・危機管理プログラム
福島 –処理水の海洋放出を非政治化する
出版日2022年7月5日
書誌名GGR Issue Briefing No. 5
著者名秋山 信将
要旨 2021年4月13日、日本政府は福島第一原子力発電所の処理水を海洋放出する方針を発表したが、これについて中国と韓国からは、近隣諸国との適切な協議がされていないとの批判の声が上がった。今回の放出は科学的知見に基づいた国際基準の下で行われるため、過度に感情的になったり政治問題化したりすることは、東アジア地域への風評被害、外交関係の悪化といった影響を及ぼしかねない。日中韓3ヵ国が取り組むべきなのは、東京電力が環境基準を守りながら海洋放出を行うための枠組みの創出、および原子力に対する安全・緊急時対応に関する地域間協力の制度化であると筆者は論じる。海洋放出問題を脱政治化させ、本当に必要なアプローチをとることが、3ヵ国全体にとっても望ましいと議論する。
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福島

–処理水の海洋放出を非政治化する

秋山 信将

(一橋大学国際・公共政策大学院院長、一橋大学大学院法学研究科教授)

2022年7月5日

 

本稿は2021年6月15日にディプロマット(Diplomat)から出版された英文論考の日本語訳である。原文は以下にてアクセス可能:
https://thediplomat.com/2021/06/fukushima-depoliticizing-the-release-of-treated-water-into-the-ocean/

 

 

4月13日、日本政府は被災した福島第一原子力発電所の処理水を海洋放出する基本方針を発表した。この準備には必要設備の設置などを含め、2年を要する見通しである。処理水は「多核種除去設備(Advanced Radionuclide Processing System: ALPS)」を用いて、トリチウム以外の放射性物質の濃度を国際基準値以下まで下げる。トリチウムは国際基準以下に希釈され、処理水中の濃度を低く保つため、数十年かけて海に放出される予定である。処理水の海洋放出に先立ち、基準値をクリアしているかを確認するために独立専門家が技術審査を行い、その審査結果は公表されることになっている。

国際原子力機関(International Atomic Energy Agency: IAEA)のラファエル・マリアノ・グロッシ(Rafael Mariano Grossi)事務局長は、日本の政策決定を歓迎し、国際的慣行に沿ったものであると述べ、同機関は政策の安全かつ透明な実施を監視、審査するための技術的支援を提供する用意があると述べた。一方で、アメリカは今回の決定を「グローバルに受け入れられている原子力安全基準に沿ったアプローチ」であると評価している

一方で、中国は日本が処理水を海洋放出することについて、近隣諸国と適切な協議をせずに一方的に決定したものであり、極めて無責任であると非難し、太平洋は日本の「ゴミ箱」ではないと強調している。韓国も海洋環境汚染の問題を挙げ、周辺国の理解と同意を得ずに決定されたものだとして異議を唱え、同国政府は国際海洋法裁判所への提訴を検討すると表明している。

放射性物質を放出すれば海が汚染されるという原理主義的な議論は別として、放出反対論を要約すると、第一に、ALPS処理水にトリチウム以外の放射性物質が残留すること、第二に、関係国への相談や十分な情報提供がなされていないということである。

第一の議論については、IAEAのグロッシ事務局長が指摘するように、基本方針通りに海洋放出が行われるのであれば、それは国際的慣行に沿った合理的な措置であると言える。原子力発電所を持つ中国、韓国、米国、英国、フランスなどの多くの諸外国はトリチウムを含む排水を海洋に放流している。

第二の議論について、日本政府は東京で外交団への説明会を継続的に開催し(2011年以降100回以上)、IAEAと緊密に協議し、IAEA総会やその他のフォーラムでも適宜方針を伝えるなど、透明性を確保する努力を続けている。日本側からすると、中国と韓国は科学的根拠のない反対論を展開し、この問題をいたずらに政治化しているように見える。

しかし、2018年に報道されたALPS処理水の残留放射性物質問題では、日本政府や東京電力による情報提供の透明性に疑問が生じたことは否定できない。ALPS処理水からトリチウムを除去できないことは以前から知られているものの、東京電力はトリチウム以外の放射性核種もまた完全には除去できないことを明確に説明していなかった。2018年のメディア報道をきっかけに、東京電力の情報開示における透明性の欠如に対して国内外からの批判が高まることとなった。この情報開示上の問題は、今回の処理水からトリチウム以外の放射性物質が完全に除去されていないのではないか、他国の原子力発電所から放出されたトリチウム水とは異なるのではないか、という懸念の根拠となっている。

新しい基本方針では、海洋放出される処理水は規制基準に対する各核種の濃度比の合計が1未満になるまでALPSで再浄化されることになっている。その後、処理水中のトリチウム濃度が世界保健機関(World Health Organization: WHO)の飲料水基準の7分の1程度になるまで海水で希釈される。年間の放出量は、事故以前に福島第一原子力発電所から放出されていた年間22兆ベクレルのトリチウムよりも低いレベルに調整され、数十年にかけて放出される予定である。

IAEAが指摘するように、これらの措置は、適切に対処された場合には現在知られている限り有効な科学的知見に基づいて設定された国際基準に沿ったものとなる。この環境基準そのものが問題視されたり、客観的・科学的データに基づかない感情的な批判が続いたりすれば、風評被害や信用に関わる損害が東アジア全域に広がり、同じくトリチウム水を海洋放出する他国の原子力発電にも影響を及ぼしかねない。

日本、中国、韓国は海洋放出開始までの2年間をゼロサムの政治ゲームに費やすべきではない。むしろ、互いに協力して、東京電力が環境基準を厳守して処理水を海洋放出するための枠組みを作ることにエネルギーを注ぐべきである。処理水を海洋放出するにあたって、日本はIAEAのモニタリングを中心に、科学的客観性、信頼性、透明性を高いレベルで維持しながら安全に放出することを保証するシステムを構築することが重要である。そのために、IAEAは中国や韓国の専門家を含む国際的な専門家ミッションを編成すべきである。また、モニタリングや評価に関するIAEAの審議は、モニタリング活動に参加していない国や日本のステークホルダーのためにも、透明性を保つべきである。

さらに、東日本大震災直後の2011年5月に開催された日中韓三カ国首脳会議で合意されたように、日中韓は原子力の安全及び緊急時対応に関する地域協力の制度化に取り組むべきである。この「制度化」とは、平時と緊急時の放射線量モニタリングのような情報開示・共有の仕組みや、緊急時の早期通知やタイムリーな情報共有の枠組みの確立を含むべきである。既に2008年に三国間の原子力安全上級規制者会合が設立され、定期的に開催されている。しかし、処理水の排出をめぐる摩擦から見てとれるように、この会議は三国間の実質的な協力関係の深化にはあまり繋がっていない。

日中、日韓関係はすでに険悪である。処理水の海洋放出問題を政治的対立に発展させることは、問題の解決を難しくするだけで、日本にも近隣二カ国にも利益をもたらさない。この問題を脱政治化し、実務者間の情報共有や技術的知見に基づく共同対応の制度化を図ることは、地域全体における利益の総和を高め、原子力に対する信頼を回復することに繋がる。三カ国はさらに先を見据え、地域全体にとって何が最善かを考えるべき時にある。

【翻訳】
鈴木涼平(一橋大学大学院法学研究科 博士後期課程)
菅原由梨子(一橋大学大学院社会学研究科 修士課程)
土方祐治(一橋大学国際・公共政策大学院 修士課程)

プロフィール

秋山 信将 プロフィール
一橋大学法学研究科教授。コーネル大学公共政策研究所行政学修士課程修了後、オックスフォード大学セントアントニーズカレッジ政治学博士課程博士候補を経て、一橋大学大学院法学研究科で博士号を取得。広島市立大学広島平和研究所、日本国際問題研究所軍縮・不拡散促進センター、外務省在ウィーン国際機関日本政府代表部公使参事官などを歴任。現在、一橋大学国際・公共政策大学院院長。専門は国際安全保障、軍備管理。