ジャーナリズムと文化的アイデアの視点から見た香港のアクティビズム
聞き手・著者:スラストリ
(一橋大学国際公共政策大学院修士課程)
2024年4月24日
*本稿は、2024年2月27日に行われたインタビューをもとに作成された。
日本ミルクティー同盟の一員であるパトリック・プーン氏(Patrick Poon)が生まれたとき、香港は経済成長の最中だった。プーン氏は、香港が繁栄の中心地に変貌する姿を目撃した人々の二世代目にあたる。香港が経済的な全盛期を迎えた時期だったため、プーン氏の世代は「全盛期の赤ちゃん(the heyday babies)」と冗談めいて呼ばれていた。彼の幼少期は、カトリックの教育と中国における政治的状況への関心に大きく影響を受けた。その時期は、天安門事件と時を同じくし、北京と中国の他の場所で起きたことが香港と共鳴していた。プーン氏の転換期は、彼がまだ幼い12歳のころに訪れた。社会運動に足を踏み入れ、100万人以上の集団抗議運動に参加したのだった。
「香港はこの時点ではまだ英国の植民地でしたが、1997年に香港が中国に返還された後に何が起こるのか、私たちは強く懸念していました。返還まであと8年のときでしたから」、彼はこう続けた。「北京や中国の他の場所の状況を知って、自分たちに実際何ができるのか、何を避けるべきなのかを、人々は進んで話しました。」このような会話は、ポップカルチャーと、時には政治とに関心が分かれていた当時の香港の人々のメンタリティを反映していた。人々は、必ずしもそうしたかったというわけではなく、自分たちの前にある変化を理解する必要があると感じていた。
返還後香港の状況は安定していたものの、それが続いたのは2003年までだった。同年、政府による自由の制限に関する香港基本法23条に反対して、50万人の人々がデモを行った。アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)での中国研究者としての仕事を離れ、香港のNGOの理事だったプーン氏は、2020年の国家安全維持法が施行されると、大きな圧力と不確実性を経験した。NGOの役員として、プーン氏らは、公の場で意見を表明したり、チラシを配ったりすることで逮捕されるのではないかと、恐怖に身がすくんだ。危険な環境のため、自己検閲を余儀なくされる人権団体が多くあった。アドボカシーは制限された。リンゴ日報に起こったことが生む圧力は、香港のジャーナリズムの将来を象徴していた。こうした懸念があったが、プーン氏は人権問題について取り組み続けることができるように香港を離れる決意をした。「香港の人々は、本土の政府が香港政府にとって代わることにもっと慣れてしまうかもしれません。私が時おり懸念するのは、安全に加えて、どのように政府の政策に反応するべきかについて人々が『洗脳』されてしまうことが、将来当たり前のものとなってしまうかもしれないことです。」氏は続けてこう述べた。「今海外に住んでいる私たちにできることは、香港のストーリーを伝え続け、香港で何が起こったかを人々に語り、そして維持するために何ができるか最善を尽くすことなんです。」
香港では、他国政府からの圧力のおかげで、限られた程度ではあるが自由を感じることはできる。しかし、香港政府と中国政府は常にそうした外国の介入に抗議するだろう。さらに、香港と中国の政府は文化相対主義の立場から、アジアの民主主義と西洋の民主主義を分割し、社会主義のアイデアを提示している(社会主義は中国が採用したイデオロギーではあるものの、実際のところ西洋由来の概念であり、そのように語ることには疑問の余地がある)。中国共産党政権は、社会主義を含むあらゆるものの「中国らしさ」をいつも強調している。しかし、そのように強調することは、概念が持つ本来の意味を歪め、権威主義政権が自身の正統性を主張するニーズに対応しているだけである。その一方で、結局、香港と中国は国際社会の一部であり、国際基準を守らず、外部の関与から自らを切り離す道理はない。これらの原則を守ることは国際社会の生来的な義務だからだ。
プーン氏は、広東語を話すコミュニティと北京語を話すコミュニティの対立を例に挙げ、中国の影響下にある香港が文化的に侵食されることに懸念を示した。これは極めて重要なことといえる。中国本土が香港のナショナリズムと愛国主義を推進する影響力を持つ中で、香港では多文化的なアイデンティティの維持が困難な課題となっているからだ。プーン氏は、学問的な焦点を、「中国人らしさ」の定義に挑戦し、文化的アイデンティティを探求することに当てている。私たちは中国人を、血統で定義しているのだろうか、それともその人が育った文化的な背景で定義しているのだろうか。そうすると、民族的には「中国人」だが、中国語を話さず、非中国的な文化的背景の中で育った人々や、民族的には中国人ではないが、文化的には「中国人」であると自身を認識する人々についてはどうなのだろうか。こういった問にプーン氏は取り組んでいる。
英国に拠点を置く対中政策に関する列国議会連盟(IPAC:Inter-Parliamentary Alliance on China)の一員として、プーン氏は世界中でロビー活動を行い、香港、中国、人権の重要性を政治家に訴えている。世界中の議員の意識を高め、国内・国際での議論に影響を与え、チベット、モンゴル、香港、台湾に関して中国に影響を与える法律の形成活動を重点的に行っている。同時に、29原則(29 Principles)では弁護士の権利保護に重点を置き、中国と香港の市民社会における―特に人権訴訟での―弁護士の役割を重視している。プーン氏は、香港民主女神(Lady Liberty Hong Kong)や在日香港人コミュニティとも関わりを持つが、その目的は、日本社会における認識を高め、中国の香港モデルが成功したかのように描かれる可能性に対抗することにある。彼はこうメッセージを伝えた。「遠くのことだとは考えないでください。もし香港で中国モデルが成功すれば、民主的な制度が必要であるのか、疑わしいと思われるかもしれないのです。」
ミルクティー同盟日本
ミルクティー同盟日本(Milk Tea Alliance Japan)は、香港だけでなく、タイ、台湾、そして日本など、他の国々にグローバルな視点を加えることができる場所だ。このような空間は非常に必要とされていたし、物語や経験を共有する重要性を過小評価すべきではない。プーン氏は、地域の独立メディアが互いをどのように助け合うことができるかに関心を持っている。特に、ミルクティー同盟日本には独立ジャーナリズムで活動するメンバーがいるからだ。元ジャーナリストであるプーン氏はこのことを重視している。「私たちは、地域における表現の自由やメディア、独立メディアジャーナリズムの保護に取り組むことができます。人生が続いていく中で、何も起こっていないかのように人々に香港のことを忘れさせていけません。他の国でも同じことが起こって欲しくはありません。」
プーン氏は、特に自由を守ろうとする香港の若者に言葉を向け、インタビューを締めくくった。現在の課題にもかかわらず、コミュニティの強靭性を反映するように、議論はなお続いている。人々による自由とエンパワメントのゆるぎ無い追求に直面した権威主義政権が長く続くことはなかった。プーン氏は忍耐の重要性を訴え、努力が続く限り、進歩と望ましい変化に対する希望は生き続けるということを思い起こさせてくれた。
【日本語翻訳】
中島 崇裕(一橋大学大学院法学研究科博士前期課程)
2004年からさまざまなNGOで働く。2000年から2003年まで香港のサウスチャイナ・モーニング・ポスト紙(South China Morning Post)で法廷記者。アムネスティ・インターナショナルの国際事務局で調査員(2013-2020年)を務め、主に中国の人権擁護者や中国新疆ウイグル自治区における人権侵害を取材。香港を拠点とする中国人権弁護士憂慮グループ(China Human Rights Lawyers Concern Group)の事務局長(2007-2012年)、理事(2012-2020年)、顧問(2021年)を務めたが、香港国家安全法の圧力により解散。2009年から2013年までアムネスティ・インターナショナル香港理事、2009年から2013年まで独立中国PENセンター(Independent Chinese PEN Center)事務局長兼理事。2021年6月から8月、スコットランドのセント・アンドリュース大学(St. Andrews University)中国学科客員研究員、2022年から2023年、明治大学比較法研究所客員研究員を経て、現在は東京大学客員研究員。英国を拠点に中国・香港の人権弁護士を支援する29原則顧問、IPAC理事、アジア弁護士ネットワーク(Asian Lawyers Network)顧問。フランスのリヨン大学(University of Lyon)異文化研究所博士課程在学中。