民主主義・人権プログラム
あなたたちも一緒に捕まってくれる?
出版日2025年2月18日
書誌名Issue Briefing No. 90
著者名チョン・ミンヒ
要旨 *本稿は、2024年4月2日に行われたインタビューをもとに作成されたものである。
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あなたたちも一緒に捕まってくれる?

聞き手・著者:チョン・ミンヒ
(一橋大学大学院 法学研究科博士後期課程)
2025年2月18日

*本稿は、2024年4月2日に行われたインタビューをもとに作成されたものである。

「あなたたちも一緒に捕まってくれる?」 Will you all be arrested with me?
「うん、捕まるときは一緒ね」 Yes, we will be arrested together

 久保田徹「境界のフィルムメイカーたち(Filmmakers in Borderland)」より

―― 「ライトアップロヒンギャ(Light Up Rohingya、2016年)」を撮った時が、初めてミャンマーに行かれた時ですか?

「はい。一番初めに会ったのが、日本に住んでいるロヒンギャの人々でした。彼らと話していくうちに、ミャンマーに行こうと思うようになりました。世の中的に、ミャンマーっていう国がいい方向に向かっているということがニュースでよく話題になっていて。経済発展しているから、いろんな日本の投資が入っていって、民主化が進んでいっている、自由になっているっていう状況がよく出ていました。

総選挙があったのは2015年の11月ですが、その中でロヒンギャの人たちの話を聞いていると、いまだにこんなことが起きているみたいな、迫害を受けているって話を聞きました。日本でそんな話を聞いていても、あんまりイメージが湧かなかったですね。群馬県に住んでいるロヒンギャの人たちも、「ミャンマーは良くなっているから、アウンサンスーチーさん支持しています」みたいな人たちではあったんですけど、それでも、ラカイン州ではひどい状況に置かれている人たちがいると聞いて。今のイスラエル・パレスチナで言うと、ガザ地区みたいな、そこから出ることができなくて、医療もまともにないようなところにずっと閉じ込められているっていう状況があると知ったので、そこに実際に行ってカメラを回したのが「ライトアップロヒンギャ」ですね。ミャンマーに光が当たっている中でその影の部分っていうか、見落とされている部分、そのギャップを伝えたいと思いました」。

――当時、法学部の学生でしたよね。映像を始めたきっかけは何ですか?

「きっかけは「ライトアップロヒンギャ」ですね。撮ったのは、大学2年と3年の時でした。その時は映像をずっとやるとは思っていなかったんですけど、作っていくうちにだんだん「これはやっていく必要があるな」ていうか、続けていきたいなって思うようになりました。S.A.L.というサークルに入っていて、そこで日本で暮らしているロヒンギャの人にインタビューをするっていうのをやっていたんですよ。だんだん僕はミャンマーに行ってみたいと思うようになって」。

――それでラカイン州に行かれたのですか?

「初めはヤンゴンに行きました。そこで暮らしているミャンマー人やロヒンギャの人にインタビューしていくうちに、ラカイン州にも行くようになって。2015年の8月に初めてヤンゴンに行って、その翌年の5月にラカイン州に行きました。ラカイン州に行ったのは2回目ですね。

ロヒンギャの虐殺が起きたのが2017年の9月ですけど、それが最も大規模な虐殺だったわけです。それ以降、ミャンマー国内でロヒンギャへの迫害が強くなってきました。その時、僕はそれまでロヒンギャの置かれている状況を自分の目で見てきたのですが、一方でミャンマーの一般の人々が、ロヒンギャへの敵意を強めていきましたね。すごく疑問だったのが、あれだけの虐殺が起きているのに、むしろロヒンギャの方が攻めてきているという風にミャンマーの人々は思っていて。そんな中で、ミャンマー人で、ロヒンギャのために活動している人々がいて、彼らのドキュメンタリーを撮ったりしていきました」。

――「エンパシートリップ(Empathy Trip、2019年)」のお話ですよね。登場したテットさんという活動家はミャンマー人で仏教徒ですが、「誰もロヒンギャのために立ち上がらない。だから、僕は立ち上がる」と言う場面がありました。

「ロヒンギャの人々そのものを撮ることより、ロヒンギャのために活動しているミャンマー人活動家を撮ることに惹かれ始めたのはあったんですね。当時ミャンマー人の民主活動家でさえロヒンギャのことを敵視していて、民主活動家の中でも「あいつはちょっとロヒンギャ側の人間だ」みたいな感じで、ロヒンギャのために活動する活動家は、マイノリティーだったわけです。そういう人々の活動がすごくかっこいいと思ったっていうとすごく安直ですけど、人間ってこうあるべきみたいな、人間の姿を撮りたいと思ったんですね。自分のポジションを守るために虐殺を見過ごすみたいなことが起きている中、人間の側に立つっていうか、活動している人たちの姿にカメラを向けたいと思ったというか。あんまり深堀できなかったのは、自分の映像の技量不足ではあったんですけど。彼は今も一貫していて、今タイの国境地帯メソトにいて、いろんな人を助けています。僕も一緒に活動していて、彼には色々助けてもらっています」。

――大学時代は、どんな性格でしたか。

「普通の大学生、別に自分は他の人と変わらなかったと思うんです。ただ、サークルに入っていろんな経験をして映像を始めたんで、カメラを持って人の話を聞いたりするっていうことが、自分を変えていったと思っています。自分の知らない世界に対して謙虚になったり、世の中に対してちゃんと向き合ったりしていきましたね。映像を作ること自体が、結構色々な責任を伴うっていうことがだんだんとわかってくるので、自分と世界との関わりが、カメラとか映像によって生まれていくっていうことってあると思っていて。

世の中で起きていることは、多くの場合、他人事として暮らせてしまうわけですけど、誰かの声をカメラで受け取ってしまうと、それを何らかの形にする責任が生まれてくる。もうちょっとその人の世界とか、難民であれば難民の人の世界、そういう状況に対して自分が直接的に関わっていくことになるので、そういう時に自分の責任っていうか、世の中のことを考えるようにはなったと思います。なので、入学した時は別にそこまで高い志を持っていたわけではなくて、国際的な仕事はしたいなぐらいのことはありました」。

――カメラを持つことで何かが変わるっていうことは、新鮮な体験ですね。

――釈放から1年経った時, 「間違っていることを間違っているとただ言い続けること、これは1人の市民にとって一番の権力だと思う」とおっしゃっていました。

「そういう風に確かに言ったと思うんですけど、そこまで自分、政治的な人間ではなかったし。映像を作る時には、メッセージを伝達するツールとして映像を用いるかっていうと、なんとも言えないんですよね。僕にとっては、ドキュメンタリーを作るっていうことは、自分がそれをまず分かろうとするプロセスでもあるし、人っていうものをそのまま伝えたいなっていう気持ちでやっていて。

ただ、その過程と結果があった時、その結果としてそこではどう考えても、一人一人の人間の側に立ちたいなという気持ちになるわけですね。一方で、活動家として何か間違っていることを間違っていると、一人の市民として言い続けるってことは、一般的に大事だと思っていて。だから映像をやっているという話とはちょっと違うかもしれないです」。

――久保田さんのYouTubeチャンネルにある映像は、ミャンマーで撮影されたものが多いですね。しかし「ジャストザマーケット?(Just the Market?)」はロンドンでした。

「移民の人たちがいたるところにいるのがロンドンなので。たまたまペルーにルーツがある友人がいて、その友人が教えてくれたんです。ペルーとコロンビアって近いじゃないですか。その友人が、コロンビアのマーケット、コロンビア人のコミュニティが再開発によって奪われようとしている、助けてみたいなこと言っていたので、自然とそこに行って撮るようになりました」。

――それはいつごろでしたか?

「2019年9月から半年の間しかイギリスにいなくて。行った当初は、現地で5年ぐらいは働いて来ようと思っていたんですよ。その後色々あって変わったんですけど、これは割と自然だったかなと思います。移民の視点っていうか、日本でのコミュニティとの違いみたいなのも知りたいと思ったし、再開発によって自分たちのコミュニティが壊されていくっていうことは世界中で起きていて。日本もオリンピック後はそれが加速しているけど、そういった中で戦っている人々とか。あれは道半ばで映像プロジェクトが終わっちゃったんですけど、この間4年ぶりにその主人公のビッキーと会いました。実際彼らの活動のおかげで彼らのコミュニティが勝ったんですよ。ディベロッパーが手を引いて、マーケットの人々の方向で新しく建物を作るっていうことになったので、マーケットは存続したというか、壊されなかった」。

――ドキュ・アッタンの映像には英語と日本語の字幕があります。字幕には、ボランティアの方が取り組まれているのですか?

「まずミャンマー語から英語にして、それはタイにいるミャンマー人に頼んでいます。彼の仕事にもなるので、タイに逃げているミャンマー人に送金します。それでデータをもらって、英語から日本語にします。英語から日本語もお金は払っていますけど、日本で暮らしている人にとっては、ボランティアぐらいのお金にしかならない。多少なりとも、お金がいくようにしています」。

――まず見てもらって、自由に寄付してもらう仕組みは今後も続けますか。

「その仕組みはずっと残していきます。誰でも見て直接寄付ができるっていう形です。それによって、ある意味日本の人々とミャンマー人を繋ぐっていうか、そういう機会を作り続けていきます。ただ、その仕組みだけでは限界があるので、ドキュ・アッタンとして新しく作品を作り続けられる状況を作らないといけないと思っています。タイの現場でワークショップをしたり、そこで新作に対して制作費を出して作ってドキュ・アッタンに掲載するとか、そういうことを通じて、もっと多くの人がメディアの仕事を続けられるようにしていかないといけないなと思っています」。

――近くミャンマーのジャーナリストや映像作家の作品がアップロードされる予定ですか?他の国の作品もアップロードされる可能性はありますか?

「ドキュ・アッタンの「アッタン」っていう言葉がミャンマー語で「声」で、ミャンマーの人々の声を伝えていくために設立されています。しばらくは、少なくともミャンマーをテーマに絞ってやっていくつもりです。ただ、それこそミルクティー同盟日本(Milk Tea Alliance Japan)みたいなプロジェクトとコラボして広げていくことは、積極的にやっていきたいなと思っています。例えば一緒に上映したりするということはできるし、パトリック・プーン(Patrick Poon)氏などと一緒に上映会をして、香港の話とミャンマーの話を見て、何かトークができるみたいな。ミルクティー出すみたいなね。そういう活動はしていきたいと思っています」。

――「境界のフィルムメイカーたち」のディレクターHは、人々の話をアニメーションにするとき、「その人の視点にたって、その人の雰囲気や人格になろうとする。本当に自分に起こったかのように感じるの」と言っています。ドキュメンタリーを作る時、どんなことを感じていますか?

「作るためにはそれをやらなきゃいけないけれど、だからといって別にその人になれるわけではないですね。そこの境目の中で作っていくものです。ミャンマーの人と僕は全く置かれている状況が違うから。ドキュメンタリーは基本的にそうやって作られると思っています。明確な他者というか、テーマや問題を伝えるよりは、他の人間の視点に立った時に、どういう風に世界が見えるかっていうことを広げるためのもの、広げられるものだと思っていて、それをやろうとしています」。

――「すべての責任は自分にある。当たり前だ。どう責任を取るか。答えは1つしかないだろう。職能を持って作り続ける」という言葉からは、重い責任感が感じられます。一方、解放から1年の映像では、「物語に優劣はない。ミャンマーも人々との繋がりから始まり、ある意味一部にすぎない」と話していらっしゃいました。この間に何か葛藤はありましたか?

「自分の人生の重なっている部分が大きい部分に対して、ちゃんと映像で役割を果たしたいなっていう気持ちはありますね。物語に優劣はない。どういう話だったかは忘れましたけど、伝統工芸の映像も撮っていて、それはそれで大切にやらないといけない仕事であって。ただ、今後はミャンマーのプロジェクトに集中したいと思っているので。葛藤みたいなのはあると思います。

特にミャンマーで拘束されて解放されてから、自分にしかできないっていうとおこがましいですけど、自分がやる必要があるっていうか、そういうことが増えちゃったので、それに多くの時間と労力を注いでいくべきだと思っています。なので、あんまりそこに葛藤はないです。昔はなんでも自分が声かけられたテーマとか、これやろうって言われたことに対して、なんでも引き受けて撮りたいと思っていたけど、できることって限られていますね」。

――優先順位をつけるということですか?

「優先順位っていうと、難しいですよね。他者の目線を体験して自分の中の世界が拡張していくことってすごく価値があると思うんですよ。ミャンマーの人の視点だってそうだし、他者を知るっていうことなので、もしかしたら主人公は人じゃないかもしれないし、普遍的なことかもしれないと思いますね。醤油とかだったら、伝統芸能の中にも菌とかですね、そこに根付いている歴史、土地の歴史や風土だったり、住んでいる微生物とか菌だったりとか、そういったものの関係性の中で生まれているものなので、それを身体レベルで体感していくっていうことは映像が持つ力だし、本当はどっちに価値があるっていうのってなかなか言えないことだと思うんです。

ただ、ミャンマーの人々の方が命に関わり、今起きていることなので、今起きていることに対して私たちができることってあるから、そっちの方が深刻度合いで言うと深刻だとは思います。だからミャンマーとかウクライナがとか、今できるアクションとして僕たちが止めなきゃいけないとか、どうにかしないといけないっていうことがあるので、緊急性は絶対高い。緊急性が高いものに対しては、今やらなきゃいけないっていう気持ちがありますね」。

――昨年4月、ウクライナのキーウに行かれましたが、そこで学校の再建に関わりながらどのように思われましたか?

「ウクライナの方々がミサイルが飛んできている状況で普通に暮らしていることに、まず衝撃を受けました。ミサイルが飛んできているけど、それを打ち落とすシステムが稼働していて、空襲警報みたいのがなると、建物の奥に隠れて夜を過ごしたりするんです。

ミャンマーで僕がいたのはヤンゴンなので、空から爆弾が降ってくることはない。今でもないですけど、ミャンマーの農村部とかに直撃して、数百人が死んだりするわけですよね。ウクライナが持っているようなミサイル衝突システム、迎撃システムをミャンマーの人々がいかに欲しがっているかはよくわかりました。ウクライナ戦争であっても、少なくともキーウにおいては、ある程度守られているという感じがしました。それがなかったら、もう火の海になっているわけですから。国民統一政府(National Unity Government: NUG)の幹部とかは、ウクライナに向かっている支援の10分の1でも貰えたなら、半年で俺たちは勝てるという試算を出していたりしていて、そこのリアリティっていうのは少しは肌感として実感できたと思いました」。

――他人の立場に立つため、普段から何か取り組んでいらっしゃることはありますか?

「普段からそういうモードで生きられるかって言うと、難しいですよね。疲れてしまうし。撮影する前は、できるだけまっさらな状況になるようにしています。自分の中で常に解釈をして人の言葉を受け取っているわけですけど、解釈する時に色々な偏見とか思い込みによって、そのまま受け取ることが実はできないことが多かったりするし。できるだけまっさらな状況になれるように、気持ちとして準備をしますね。瞑想したりします」。

――最後にお話しされたいことはありますか?

「どうやったらドキュメンタリーを社会に実装できるか、エンゲージできるかみたいなことをずっと考えていました。ドキュ・アッタンもそういう1つのプロジェクトとして位置するのかなと思っています。すごく一方通行じゃないですか、テレビとかのコミュニケーションって。もっと映像を媒介として支援が集まったり、その人々がコミュニティを形成していったりとか、そういうものである必要があるなと思っています。ドキュ・アッタンをする前から、コロナ禍をきっかけにドキュミームっていうプロジェクトをやっていたのですけれど、それで東京で生きる人々の抗議の声だったり、支援を必要としている現場を発信していくことで寄付を集めたりとか、そういったこともやっていたのです。なので、そういった意味では、一貫して僕はそういう映像をどうやったら世の中に根付いていくっていうか、そういうものとして考えています。なので、ミャンマーがきっかけで始めて、今もミャンマーのことをやっているのですが、根本にはそういう思想っていうのがありますね。」

プロフィール

東京を拠点に活動するドキュメンタリー映画作家。2014年よりロヒンギャ難民の撮影を開始し、ドキュメンタリー制作を始める。以降、BBC、Al Jazeera、NHKなどにてディレクター、カメラを担当。2022年7月、ミャンマーにて撮影中にミャンマー国軍に拘束され、111日間の拘束期間を経て帰国。ミャンマーのジャーナリスト・映像作家を支援するプロジェクト「ドキュ・アッタン」の共同代表も務める。