ハシナ最後の抵抗 -クオータ運動、学生の蜂起、バングラデシュ民主主義の未来
ビラル・ホサイン(Billal Hossain)
(一橋大学大学院法学研究科 博士後期課程)
2024年11月13日
はじめに
バングラデシュは1971年、パキスタンとの9ヶ月に及ぶ泥沼の戦争を経て独立を果たした。シェイク・ハシナ(Sheikh Hasina)率いるバングラデシュ・アワミ連盟(Bangladesh Awami League: BAL)は、2008年に政権に復帰して以来、バングラデシュの政界を支配してきた。軍の支援を受けた2年間の暫定統治の後、アワミ連盟は2008年の総選挙で地滑り的勝利を収め、ハシナが首相に就任した。ハシナ政権は経済成長、インフラ整備、社会変革に重点を置いたが、それだけでなく敵対政党を標的にし始めた。テクノロジーを使って開発を推進するビジョンである「デジタル・バングラデシュ(Digital Bangladesh)」が彼女の政権の要となった。
ハシナによる弾圧
2014年の総選挙では、主要野党であるバングラデシュ民族主義党(Bangladesh Nationalist Party: BNP)が投票をボイコットしたため、半数以上の議席でアワミ連盟の不戦勝となり、物議を醸した。この選挙は「夜間投票(night vote)」として知られている。投票所のほとんどが選挙前夜に占拠され、アワミ連盟の政治活動家たちはその夜に投票を行ったためである。CNNによると、少なくとも18人が死亡、200人以上が負傷し、150の投票所が焼かれたという[1]。
2018年の総選挙でも、アワミ連盟が再び勝利を収めた。しかし、この選挙は不正投票、有権者への脅迫、反対派の弾圧があったとして国内外から激しい批判を浴びた[2]。ハシナ政権の下、政府は反対派への締めつけを強め、メディア検閲を実施し、デジタル・セキュリティ法(Digital Security Act)を用いて反対派を弾圧した。その後、2024年初頭に行われた総選挙では、あらゆる権力を動員して再び勝利し、国民は誰も投票することができなかった。国際的に報道されることを目的として、ダミーの選挙センターと候補者が集められ、その模様がメディアで放送された。この選挙は市民の間で広く「ダミー選挙(dummy election)」と呼ばれている。
16年間の任期中、ハシナ政権は民主主義制度を弱体化させ、司法の独立性を低下させ、人権を侵害したとして非難された。彼女の統治で最も危険だったのは、バングラデシュ国民の投票する力が失われ、表現の自由が奪われたことである。さらに、アワミ連盟の指導者や活動家、閣僚、政府高官は、数百万ドルを得ることで、汚職から利益を得ている。ハシナでさえ、バングラデシュのルプール原子力発電プロジェクト(Roppour Atomic Electricity Project)を開発するために、ロシアの企業から50億ドルの賄賂を受け取っている[3]。
潮の変化
一方、クオータ制度(1971年の独立戦争を戦った「フリーダム・ファイター」と呼ばれる兵士の子孫に対する公務員優先採用枠の制度)の復活に反対する全土にわたる学生運動は最高潮に達した。しかし、ハシナは他の問題と同様に権威主義的な立場を取り、運動を無視しようとした。しかし今回は、彼女は間違いを犯した。ハシナが退任する前の激動の数日間、バングラデシュ政府とバングラデシュ国民の間に広がる溝を露呈するような一連の出来事が勃発し、激化していた。2024年7月14日、中国から帰国した直後、ハシナは学生主導のクオータ制度反対運動を退け、さらにデモ参加者を「ラザカーの子どもたち(children of Rajakar)」と呼んだ。「ラザカー」は、バングラデシュにおいて非常に侮蔑的な言葉で、1971年の独立戦争時に、パキスタンからの独立に反対し、パキスタン側に協力した人々を指す。この発言は学生たちの怒りに火をつけ、学生たちは、彼女を権威主義的な指導者になぞらえた大合唱で応じた。政府は暴力的に対応し、その後外出禁止令を発したが、抗議行動を鎮めるどころか、さらなる不安を煽るだけだった。8月1日、ハシナは学生の要求を聞き入れることなく、武力行使に固執した。これが決定的な誤算となった。
彼女を支援しようとする支持者の訴えや、党の忠実な支持者による運動鎮圧の努力にもかかわらず、流れは不可逆的に変わった。8月5日、反対運動が激化し、国民の怒りが高まる中、ハシナは辞任と国外退去を余儀なくされ、彼女の独裁政権は終わりを告げた。インドに逃亡する前、彼女は首相の座に留まるためにあらゆる手を尽くした。彼女は、警察やその他の勢力に流血の応酬を止めるよう命じたが、8月16日までに事態は悲劇的なレベルにまで激化していた。警察はデモ隊を発砲する権限を与えられた。650人以上の学生と将兵が殺害され、1万人以上が負傷、1万5千人近くが逮捕された[4]。
その後、バングラデシュ軍の支援を受けた暫定政府が発足した。ムハマド・ユヌス博士(Dr. Muhammad Yunus)が最高顧問を務める暫定政府は、合計17人の顧問からなる。このうち2人はクオータ制度復活反対運動チームの学生である。ハシナが去った後、市民社会はしきりに「軍が政権を握ってしまう」と主張したが、最終的には軍はこの道を選ばず、学生たちと話し合い、ユヌス博士を暫定政権の最高顧問に選んだ。今、バングラデシュの未来はこの暫定政権にかかっている。この国のほとんど全ての民主的・立憲的制度が改正を必要としている。
今後の見通しと残された問題
過去16年間、民主的・立憲的制度はハシナの支持者によって運営され、支持者はこれらの制度と地位から利益を得てきた。改革の後、公正で中立的な総選挙を実施し、政府の民主主義を確保する必要がある。しかし、総選挙の実施には、いくつかのハードルがある。すなわち、正確な有権者リスト、公正な選挙管理委員会、さまざまな政党の改革が必要である。さらに懸念すべき問題は、バングラデシュの国内情勢である。ハシナが辞任してインドに逃亡したとはいえ、ハシナの政党の支持者は依然として多い。また、インドによるバングラデシュ国内の少数派のヒンドゥー教徒への干渉が、現在の状況を悪化させている。今回の暫定政権が事態を沈静化させ、内戦に発展しないようにすることが重要である。8月末には、アワミ連盟の党員、ヒンドゥー少数派、バングラデシュ民族主義党の党員の間に内乱の兆候が見られた[5]。そのため、このような状況において、ユヌス博士はまず不安定な政治環境を鎮めようと試みている。その後、政府は法と秩序の回復に取り組むであろう。
汚職防止委員会や選挙管理委員会のような機関が改革され、自由で公正な選挙が実施され、体制の移行が平和的に成功すれば、バングラデシュは民主主義への新たな決意を目の当たりにすることになるかもしれない[6]。しかし、市民社会と政党が信頼と言論を再建するまで、支援はするが介入はしないという役割を、軍が果たす必要があるだろう。知識人たちは、社会の溝を埋め、ハシナに対する抗議行動の動機となった問題を解決することの重要性を強調している。
しかし、改革が失敗すれば国全体の政治情勢が不安定になるという事実は、国際的な懸念事項であるべきである。ハシナが16年間も支配を長引かせてしまったため、野党は既に混迷の瀬戸際に追い込まれている。彼らは現在、敵対的な態度をむき出しにしている。2024年8月5日以降、ヒンドゥー領内の寺院や家屋で有害な活動が行われている。テロリストが家や寺院に放火し、少数民族の一部がインドに入ろうとしている[7]。その結果、インドの首相がこの問題に取り組み始め、より多くのヒンズー教徒が抗議に参加するようになっている。このインドの動きは、バングラデシュをさらに不安定にしている。さらに、バングラデシュ民族主義党とアワミ連盟の従業員の間の階級闘争に関するニュースも報じられている。これは、インド系の宗教団体によって支持されているマイノリティ問題を悪化させるであろう。これら全ての問題に取り組むために、暫定政府は対インド外交政策を転換しなければならない[8]。
結論
民主的なプロセスが迅速に対応されず、秩序ある選挙を実施することができない場合、軍事クーデターが発生する可能性がある。政治的な対立が深まり、経済的な困難や社会的不安が重なれば、暴力が広がり、非民主的な方法で軍部による政権奪取が起こるかもしれない。このような社会不安は、民主主義の発展を妨げ、最終的にはより権威主義的な政府をもたらす可能性がある。このシナリオを防ぐためには、現在の体制を改革した後、できるだけ早く総選挙が実施されるべきである。しかし市民は、暫定政府が改革を実行するための手段として機能する可能性も念頭に置くべきである。そのために暫定政府には一定の行動余地が与えられるべきである。
【日本語翻訳】
岸 晃史(一橋大学法学部学士課程)
中島 崇裕(一橋大学大学院法学研究科修士課程)
[1] Farid Ahmed, “Bangladesh ruling party wins elections marred by boycott, violence”, CNN (January 6, 2014). (https://edition.cnn.com/2014/01/06/world/asia/bangladesh-elections/index.html 2024年8月21日最終閲覧). [2] Michael Safi, Oliver Holmes and Redwan Ahmed, “Bangladesh PM Hasina wins thumping victory in elections opposition reject as ‘farcical’”, The Guardian (December 31, 2018). (https://www.theguardian.com/world/2018/dec/30/bangladesh-election-polls-open-after-campaign-marred-by-violence 2024年8月21日最終閲覧). [3] TMA desk, “Hasina, Joy and Tulip embezzle $5 billion from Rooppur project”, The Mirror Asia (August 18, 2024). (https://www.themirrorasia.net/news/2024/08/18/1956 2024年8月21日最終閲覧). [4] Desk report, “Nearly 650 people killed in recent spate of violence in Bangladesh: UN report”, The Hindu (August 17,2024). (https://www.thehindu.com/news/international/nearly-650-people-killed-in-recent-spate-of-violence-in-bangladesh-un-report/article68535793.ece 2024年8月21日最終閲覧). [5] Desk report, “Minorities faced 205 attacks after fall of Sheikh Hasina government in Bangladesh: Hindu groups”, The Hindu (August 10,2024). (https://www.thehindu.com/news/international/minorities-faced-205-attacks-after-fall-of-sheikh-hasina-government-in-bangladesh-hindu-groups/article68508954.ece 2024年8月21日最終閲覧). [6] ABM Uddin, “We must strengthen our institutions to preserve democracy”, The Daily Star (August 13,2024). (https://www.thedailystar.net/opinion/views/news/we-must-strengthen-our-institutions-preserve-democracy-3675476 2024年8月21日最終閲覧). [7] Desk report, “Hundreds of Bangladeshi Hindus gather at Indo-Bangladesh Border to seek refuge in India”, The Economic Times (August 10, 2024). (https://economictimes.indiatimes.com/news/international/world-news/hundreds-of-bangladeshi-hindus-gather-at-indo-bangladesh-border-to-seek-refuge-in-india/videoshow/112429571.cms?from=mdr 2024年8月21日最終閲覧). [8] Thomas Kean, “After Hasina, Bangladesh needs a foreign policy reset”, Nikkei Asia (August 12, 2024). (https://asia.nikkei.com/Opinion/After-Hasina-Bangladesh-needs-a-foreign-policy-reset 2024年8月21日最終閲覧).
一橋大学大学院法学研究科博士後期課程在籍。バングラデシュ人で、研究分野はグリーン・イノベーションと国際関係。博士後期課程への進学以前は、一橋大学国際・公共政策大学院で修士号を取得。