民主主義・人権プログラム
日本発の台湾に関する誤情報-ナラティブ分析と新たなナラティブの形成
出版日2024年5月13日
書誌名Issue Briefing No. 67
著者名黒木美里 坂口聡 佐藤正宗
要旨 偽(誤)情報に対する懸念が高まるなか、どのように対処すればいいのであろうか。本稿は、日本国内から発せられた台湾に関する誤情報を用いて、この問題について検討する。日本経済新聞が2023年2月28日に掲載した「台湾の退役幹部の9割が中国に情報を売っている」との記事は、日本国内で議論を巻き起こしただけでなく、台湾政府が直接に内容の不正確さを指摘するまでに至った。本稿ではまず、この情報に関するファクトチェックを行い、誤情報である可能性が高いと分析する。次に、当該誤情報の対象となるペルソナと誤情報が持つナラティブの詳細な分析を通じて、本誤情報への対抗策を講じる。50歳の既婚者男性で、会社員で管理職を担い、世帯年収850万円、日経新聞の読者である人物をペルソナとして推定し、誤情報が反台湾感情を惹起しうると指摘する。ペルソナが高い関心を持つ経済の観点から対抗ナラティブを形成し、拡散の際の注意点にも触れる。最後に、本稿の限界を指摘しつつ、新聞記事であってさえ正確性に注意しなければならないと結論する。
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日本発の台湾に関する誤情報
-ナラティブ分析と新たなナラティブの形成

黒木美里
(南山大学社会科学研究科 博士前期課程)
坂口聡
(東海大学大学院政治学研究科政治学専攻 博士前期課程)
佐藤正宗
(神戸大学海洋政策科学部 学士課程)
2024年5月13日

はじめに

インターネットやSNSは既に私たちの生活に不可欠なものとなっているが、近年、偽情報や誤情報が重要な問題として取り上げられている[1]。「誤情報」とは「意図せずに拡散された不正確な情報」を指し、「偽情報」とは「人を欺くことを意図して拡散され、深刻な害をもたらす情報」と定義される[2]。このような偽(誤)情報への懸念の高まりの根底にあるのは、民主主義においては正しい情報をもとに個人の自由な判断が確保されるべきという信念であり、また、偽(誤)情報の蔓延によってその基盤を支える健全な情報インフラが侵食されるという危機感である[3]

このような危機感は、日本政府などにおいても共有されており、例えば2023年7月に公開された日本外務省の外交専門誌『外交』Vol.80では「『情報戦危機』に備えよ」という特集が組まれ、10本の論考が載せられた。他にも、民間シンクタンクやプラットフォーム事業者なども偽情報対策に取り組んでおり、日本の総務省がこれらの動きを支援している[4]。このように、偽(誤)情報に対する問題意識は官民を問わず高まっている。

本稿では、上記のような問題意識を背景に、日本国内のアクターによる日本語を使った偽(誤)情報の拡散に主眼を置き、台湾に関する偽(誤)情報について分析を行う。しかし、ここでは単に流布された情報の真偽を調査するだけに留まらない。偽(誤)情報が読者に対しどのようなナラティブを想起させるのか、それは何故か、どのような対抗ナラティブが有効なのかなどについても議論する[5]

1.分析対象の記事について

本稿では、日本経済新聞(以下、日経新聞)が2023年2月28日に掲載した連続特集記事『迫真』における「台湾、知られざる素顔1」を分析対象として扱う[6]。この記事は台湾と中国のつながりに関して書かれたもので、特に台湾軍の退役軍人が中国に対し情報漏洩を行っているという情報に焦点を当てている。記事は元台湾軍幹部とされる50代男性の話から始まる。彼は退役後、「軍幹部OBのお決まりのルート」に乗り中国に軍の情報を流す代わりに中国でレストランを開いたが、流す情報がなくなるにつれ中国当局から嫌がらせを受け、レストランは閉鎖に追い込まれた。しかし彼は「それでも中国が好きだ。恨みはない」と振り返ったという。さらに関係者とされる人物は、台湾軍幹部の9割ほどが退役後中国に渡り、軍の情報提供を見返りに金銭を得ている、とインタビューで発言している。詳細は次節で述べるが、近年の台湾軍に関する情報漏洩のニュースについても触れられている。また台湾軍の性質について「中国人を親などに持つ中国ルーツの「外省人[7]」が[筆者注:幹部職を]牛耳る旧習が続く」と記述されている。そのため、対中強硬姿勢をとる蔡英文総統への軍の反発が強く、総統は台湾軍を掌握できていない、とも明記されている。最後に、釣魚台[記事注:尖閣諸島の台湾名]をめぐる日台間の問題にも触れ、「釣魚台は台湾の領土」だという標語を紹介するとともに、2008年に日本の海上保安庁の船と台湾漁船が衝突し沈没した事件を契機に、別の台湾漁船が尖閣の領海に侵入し、当時の台湾行政院長が「開戦も排除しない」と発言したことを取り上げている。この記事は、中国との有事において台湾軍と日本が領土防衛で本当に協力できるのかという疑問を投げかけて終わっている。

記事は公開された直後から日本国内で大きな波紋を呼んだが、顕著であったのは台湾側の反応の早さであった。翌日の2023年3月1日、国軍退除役官兵輔導委員会の馮世寬主任委員が報道陣の前で事実無根であるとして深い遺憾を表明した[8]。同月3日には謝長廷・台北駐日経済文化代表処駐日代表が自身のFacebookにおいて、駐日代表処が日経新聞に出向き「確認・検証されておらず、国軍の名誉を毀損するものである」との文書を手渡したと明らかにした[9]。また外交部や総統府も、遺憾の意を表明した[10]。これらを受けて日経新聞は、2023年3月7日の朝刊において「お知らせ」と題する文章を載せ、「取材対象者の見解や意見を紹介したものであり、日本経済新聞社としての見解を示したものではありません。混乱を招いたことは遺憾です。公平性に配慮した報道に努めて参ります」と述べている[11]。その後も多くの記事で当該問題は取り上げられ注目を浴びた[12]

2.ファクトチェック

本稿は、台湾の国防部や総統府が直接言及した、9割の退役軍人が中国に渡って軍の機密情報を提供しているという内容に着目し、ファクトチェックを行った。その結果、当該内容が「根拠不明」であると判断した[13]

検証過程は次のとおりである。まず、台湾国防部から中国への情報漏洩について調査した結果、情報漏洩自体は過去何件か生じていることが分かった。例えば、2021年7月には国防次官が中国のスパイへ情報漏洩を行った疑いがあるとして調査を受けていることが判明した[14]。また、2023年1月に台湾の元将校らが、軍の部隊配置などの機密情報を中国に漏洩したことで立件されている[15]

しかし、退役軍人の「9割」が中国に情報漏洩を行っているという事実は確認できなかった。実際、本稿と同じ問題を扱う記事を書いた小笠原欣幸(東京外国語大学名誉教授、台湾政治研究者)は次のように述べている。「筆者は4月に訪台し、台湾の国防関係者、識者、ジャーナリストらとこの記事について意見交換をした。スパイの数については推測にならざるを得ないが、『ある程度いる』というのは共通する感覚であった。『9割』は論外であるが『1割』なら実態に近いかもしれないという感想を漏らした人もいた。」[16]

このため、明確な証拠をもって「9割」という数字の真偽を確かめることはできていない。検証結果としては「根拠がないか不充分であり、事実の検証が出来ない」という「根拠不明」が最適である。ただし、小笠原が示した論拠を考慮すれば、「一部は正しいが、重要な部分に誤りや又は欠落がある。またはミスリード」と定義される「不正確」と解釈することも不可能ではない。

なお、偽情報の定義に従えば、主体が意図的に誤った情報を流していることが確認されなければならない。今回のケースにおいて、主体として考えられるのは日経新聞、記事を書いた記者、編集担当者、インタビューで問題の内容を発言した人物であるが、現時点でその真意を明らかにすることはできていない。日経新聞では、他の新聞社と同様に、綿密な裏取りを行った後に記事を発行することを筆者たちは現役記者に確認した[17]。ただし、今回の記事が「根拠不明」になった理由を分析するならば、当該記事が連続特集記事であったことが指摘できるだろう。特集記事として、厳密な数字よりもメッセージ性の方が重視されてしまった可能性がある。

以上のことから、問題の記事を「偽情報」とは断定せず、「誤情報」の可能性が高いと考えて分析を進めていく。他方、今回の記事が「偽情報」であれ「誤情報」であれ、本稿の意義が失われることはない。誤った情報は、たとえ意図的に流されたものでなかったとしても、人々の意思決定や行動に影響を与えるためである[18]。また、台湾に関する偽(誤)情報は外国の戦略に組み込まれ利用されることがある[19]。今回のケースは外国ではなく日本国内のアクターから発生してしまった誤情報であるが、幸運なことに他国によって利用された例は管見の限り見当たらない。しかし、台湾など国内外のメディアに取り上げられるほどの影響力を持っていることを考えれば、本稿が当該記事を分析することの重要性は依然として高い。

3.ペルソナ分析

偽情報や誤情報を訂正し、正しい情報を届ける際に重要なのは、どのような人が偽情報のターゲットとされ、あるいはどのような人が誤情報に晒されたのかを分析することである。なぜなら、影響を受けた人に届くように正しい情報を流すことが、健全な情報インフラを守るために有効だからである。今回の分析対象は誤情報である可能性が高いため、当該誤情報に触れた人々の社会的地位、思考パターン、感情や信条などを考慮し、可能な限り詳細にペルソナ分析を行うことで、正しい情報を認識してもらうための効率的かつ有効なナラティブを彼らに届けたい。

そのため、本稿では、この誤情報に晒された最も一般的な人物像を分析してペルソナを設定する。まず、日経新聞のメイン読者層の全体的な特徴として、40~50代が多いこと、課長クラス以上の役職者が約半数の割合を占めること、平均年収が約900万円であることが挙げられる[20]。また、厚生労働省の調査によれば、40~50代の既婚者の割合は全体の約7割に相当する[21]

以上の根拠から、本稿は以下の特徴を持つ「山田正俊」と名付けたペルソナを設定し、これが本誤情報に最も晒されたタイプの人間であると仮定する。山田正俊は50歳男性の既婚者であり、会社員で管理職を担い、世帯年収は850万円、日経新聞の読者であると仮定する。

日経新聞の読者数約350万人から、男性・40~50代・管理職・既婚者という要素で絞り込み、約20万人が「山田正俊」というペルソナに該当すると考えられる。

次に数々のデータをもとに、約20万人の「山田正俊」の感情を探る。「山田正俊」は50代男性で、そろそろ定年の時期であるが、住宅ローンの支払いや年金問題などを理由に引退した後の生活を心配している[22]。そのため自身の給料源である管理職の仕事には熱心で真面目に取り組んでおり、会社の業績に直結する経済動向の情報収集や、社内の業務を円滑化させる努力をしている。しかし、社員が向いている方向がバラバラであるのに加えて、部下と上司、双方とコミュニケーションをとりながら円滑な組織運営を支えなければならず、負担が大きい[23]。それもあってか疲労がたまりやすく、不安や苛立ちが募ることが多い[24]。以上のような事情を背景に、リスクを回避する傾向が強く、消費活動においても、知らない製品よりもなるべくブランド品を買うようにしている[25]日経新聞についても、日本五大新聞の一つであり、経済論評等において高い評価を持つというブランドに対して信頼を寄せている[26]

これらの感情に対して今回のナラティブはいかに影響を与えうるだろうか。まず、ペルソナが本記事に目を通し、内容を信用する上で最も重要な要因となったのは日経新聞への信頼であった。

さらに、管理職という部下の責任を負う彼の立場は、情報漏洩への警戒を強めた。特に、当該記事が掲載された前日の2023年2月27日、ベネッセコーポレーションの関連会社の派遣社員により約4858万人の個人情報が流出した事件で1300万円の賠償命令が下されたことが報じられており、組織内部の人間による組織に害する行為に対し敏感なタイミングであったと考えられる[27]

また、ペルソナが当該記事に関心を寄せた理由としては、中国に対する多少の反感も指摘できる。アメリカの調査機関であるピュー・リサーチセンター(Pew Research Center)[28]が2023年に実施した調査によると、日本人の87%が中国を「好ましくない」と見ている[29]。さらに内閣府が実施した「外交に関する世論調査」における中国に対する親近感の調査によれば、「どちらかというと親しみを感じない」「親しみを感じない」と回答した40代~50代男性の割合が約7割に達している[30]。特に「山田正俊」は管理職として大きな市場を持つ中国へアンテナを張っており、その上で国家安全維持法による日本人会社員の不当な拘留が行われた事実も強く印象に残っていたと考えられる。これらの要因により、「山田正俊」は当該記事に強い関心を寄せたのである。

4.ナラティブ分析

では、山田正俊が影響を受けたこの誤情報は、結果としてどのようなナラティブを山田に届けてしまったのだろうか。問題の記事は「台湾軍が腐敗している」あるいは「台湾軍が中国に買収されている」というナラティブをペルソナに想起させる[31]

前節で指摘した通り、ペルソナに該当する40~50代男性の約7割が中国に対し「どちらかというと親しみを感じない」「親しみを感じない」と回答している。そのため、台湾の中国への接近を想起させるこのナラティブは、日本人の台湾に対するマイナスな国民感情を引き起こし、ひいては日台関係の悪化に繋がる危険性がある。記事で述べられているように、軍の腐敗が総統府のコントロール力不足による結果だという言説に繋がれば、台湾軍の腐敗は台湾政府そのものの信頼性に関わる事態となる[32]

次に、今回のナラティブの構造や特徴について分析する。まず重要な点は、この誤情報が事実と組み合わせられていることである。先述したように、台湾軍の汚職や情報漏洩は実際にあった出来事である。また、いわゆる外省人に区別される人々が伝統的に国防部の中枢を占めてきたことも一般的に知られることである。当然ながら、外省人だから中国に情報漏洩をする、という因果関係が成り立つわけではないが、事実として存在する部分が誤った情報と組み合わさることで、それが真実であるかのような印象を与えかねない。加えて、ファクトチェックの明快さを失わせ、それに伴って誤った認識を正すための新たなナラティブへの耐性を強化してしまう。

また、インタビューの出所(名前等)は最初のインタビューした一人以外は詳細に示されておらず、曖昧になっているが、このようにインタビューという形式をとることで読者に対して現実味を持たせてしまっている。プライバシー保護の観点からインタビューを匿名にすることは珍しくないが、これにより記事の信憑性が確保されているか否かに関しての調査が難しくなっているのも事実である。

加えて、当該記事は中国と台湾軍の親密さを強調する結果になってしまっている。特に「それでも中国が好きだ」という見出しは台湾と中国の親密性を強調し、退役軍人による中国への情報漏洩、尖閣諸島問題への言及といった部分と相まって印象が意図的に方向づけられていると捉えることができる。本来、記事内でも言及されている「中国に脅されている」といった表現は中台関係の悪いイメージを与えかねないものだが、「それでも」中国を好きだと言う台湾退役軍人の発言と見られる表現は、むしろ台湾の好意的な対中感情をいっそう印象的にする。つまり、中国に親しみを感じないペルソナに反台感情を惹起させる危険性がある。

5.新たなナラティブの形成

以上の分析を踏まえ、当該記事によって悪化した「山田正俊」の台湾に対する印象を改善するために、新たなナラティブを形成する。本稿では、「山田正俊」の親台感情を醸成することを目的として、台湾と日本は経済面で深い関わりがある、いわゆる「相思相愛」の関係であり、その良好な関係が双方に良い影響を与えるという趣旨のナラティブを想定する。

「相思相愛」というナラティブは以下の理由から有効である。一般に、人は相手から好意や恩恵を受けた際に、報いようとする心理が働くことが、返報性の原理(the Norm of Reciprocity)として知られている[33]。特に、自分に好意を示す相手に対して同じように好意を返したくなる心理は好意の返報性と呼ばれ、ビジネスなどで活用されている。多くの台湾人が日本に好感を抱いていることを「山田正俊」に訴えることで、台湾への感情を改善することができるだろう[34]。また、周囲の人々が好感を抱いているものに対し、好感を抱きやすいことが、行動心理学においてバンドワゴン効果として知られている。ペルソナと同年代の日本人男性の多くが台湾に好感を抱いていることを知らせることで、バンドワゴン効果による親台感情の醸成を期待できる[35]

その上で、これまでの「山田正俊」のペルソナ分析から、彼は経済に関心を持っていると考えられるため、経済の側面からナラティブを構築することが拡散・浸透に有用な方法だと考える。すなわち、日台関係の深化による経済的発展の見込みについて言及することで「相思相愛」のナラティブを届けるのである。特に近年では半導体産業を中心として両国の企業間の接点は拡大・深化しており、日経新聞をチェックする「山田正俊」であれば当該領域に関心を持っている可能性は高い。例えば、台湾企業であるTSMC(Taiwan Semiconductor Manufacturing Company)の熊本工場稼働に関しては、両国の経済的・政治的な効果について様々な議論があるものの[36]、日本にも台湾にも一定の利益があるという相互補完性を強調することで、会社の利益に敏感な「山田正俊」の台湾に対する感情が改善されるだろう。

日本と台湾の良好な関係性を強調するこのナラティブを拡散するにあたり、「山田正俊」が信頼し購読している日経新聞を媒体とすることが有効である。また、公益財団法人日本台湾交流協会など日台間の良好な関係構築に努める団体から本ナラティブを流布してもらうことも、より一般的な偽(誤)情報対策としては重要である。団体の情報や記事のリンクを日経新聞に貼ることできれば、これらの媒体を通して本ナラティブを拡散し「山田正俊」の親台感情を醸成することが可能となる。

他方、「9割の退役軍人が中国に情報漏洩を行っている」という誤りを放置する以上、「山田正俊」のマイナスなイメージをプラスにすることはできないし、ナラティブに直接晒される人も増える可能性がある。そのため本稿で行ったようなファクトチェックやペルソナ分析の過程を分かりやすくまとめ公表することで誤りを修正したい。この内容を日経新聞に直接掲載することは難しいが、リンク付けする日本台湾交流協会など良好な日台関係の構築に努める団体であれば可能だと考えられる。その際、紐づけたリンクのタイトルに組織のコントロールの重要性に関わる文言を入れることで、管理職であるペルソナの関心に沿ったものとなり、彼の関心を引くことができる。

また、情報との接し方に関する一般的な注意喚起も入れることで、本ケースへの個別的な対処を越えた、人々が偽(誤)情報に影響を受けないための「情報教化」になり得る[37]。注意喚起を受けることで、台湾に対する誤った認識に自覚的になり、マイナスな印象の払拭が期待できるだろう。

おわりに

本稿は、一橋大学グローバル・ガバナンス研究センターが2023年2月および4月に開催した集中セミナー「偽情報に対抗し、民主主義を守るには」の共同研究の成果の一端である。なお、執筆者ではないが、鈴木刀磨(奈良先端科学技術大学院大学 修士課程)も議論に参加した。

本稿では、日経新聞が2023年2月28日に掲載した「台湾の退役幹部の9割が中国に情報を売っている」という記事についてファクトチェックとナラティブ分析を行うと共に、ペルソナ分析の結果に基づき誤った情報による誤認識を正し、また誤認識による台湾へのイメージ低下を修復するために有効なナラティブについて検討した。一橋大学グローバル・ガバナンス研究センター主催の集中セミナー「偽情報に対抗し、民主主義を守るには」で得た知見や様々な先行研究を活かし、誤った情報が市民にどのような影響をどのように与えるか、約1年にわたり十分議論を重ねることができたと自負している。

一方で、この記事の内容が「偽情報」であるかの調査が十分にできず、「誤情報」である可能性も考慮したまま検討を重ねざるを得なかった点は大きな反省点である。「偽情報」の発信者の特定が難しい状況が多々あることは承知していたが、新聞記事が記者や編集長といった複数人の手を経る過程で、どのような意図を持って発行されたのかを外部から調査する難しさを、本稿を通じて痛感した。また、新たなナラティブの具体的内容と、それを発出する機関について十分に検討できなかったことも本稿の限界としてここに記しておきたい。これらの課題は筆者らにとって大きな教訓である。

人々が日常の中で得る情報は、個人の自由な判断を形成し、民主主義の根幹となる。この情報取得に際して、ネット上の情報だけでなく、発信元がはっきりしている新聞等の情報に対する正確性への警戒も重要であることが、本稿により明らかとなった。

 

 


[1] 2022年から始まったロシアによるウクライナ侵攻においてはロシア・ウクライナ双方によって偽情報を用いた認知戦が繰り広げられている。また、2024年1月13日に実施された台湾総統選挙において、中国系の動画サイトなどを通して、政権与党であった民進党の候補を攻撃し、野党候補を応援する内容の偽情報がネット上で大量に拡散されたことが大きく取り上げられた。

[2] 国際連合広報センター「偽情報への対処-偽情報がもたらす課題とその対応について」2023年7月28日(https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/48456/)(最終アクセス2023年10月21日)。

[3] Jessica Brandt, Maiko Ichihara, Nuurrianti Jalli, Puma Shen, Aim Sinpeng, “Impact of disinformation on democracy in Asia,” Brookings Institution, Dec 2022 (https://www.brookings.edu/articles/impact-of-disinformation-on-democracy-in-asia/)(最終アクセス2023年9月29日)。

[4] 総務省「偽情報対策に関する総務省の取組について」2023年5月25日(https://www.soumu.go.jp/main_content/000882504.pdf)(最終アクセス2024年2月13日)。

[5] その意味で、本稿が扱ったものと同じ記事の問題点を分かりやすく整理した以下の記事とは異なっている。小笠原欣幸「日経台湾特集の何が問題だったのか?:現地で反発招いた報道の落とし穴」『Yahoo!ニュース』2023年5月18日(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00904/)(最終アクセス2023年9月29日)。

[6] 「台湾、知られざる素顔1(迫真)」『日本経済新聞』2023年2月28日、朝刊2頁。

[7] 台湾において第二次世界大戦終結後に中国本土から台湾へと渡ってきた人々。第二次世界大戦終結以前からの住民である「本省人」と対比される概念。

[8] 「日紙の台湾報道が台湾で波紋」『台湾新聞』 2023年3月9日(https://taiwannews.jp/2023/03/%E6%97%A5%E7%B4%99%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%8C%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%A7%E6%B3%A2%E7%B4%8B/)(最終アクセス2023年12月6日);

高橋正成「『日経報道』で内部を牽制する台湾政治家のしたたか」『東洋経済オンライン』2023年3月15日(https://toyokeizai.net/articles/-/659405)(最終アクセス2023年11月24日)。

[9] Facebookにおける謝長廷氏の投稿、2023年3月3日(https://www.facebook.com/frankcthsiehfans/posts/pfbid02e5PTHiyBB9PHqeVkSQaUVtHaiiRsvJYTDEFZpypRyTF5nPrVFzKP6qGkwTkLv2ADl)(最終アクセス2023年11月24日)。

[10] 「台湾九成退休军官赴中卖情报? 日媒:仅为受访者意见」『Radio Free Asia』2023年3月7日(https://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/gangtai/hcm2-03072023075902.html)(最終アクセス2023年7月15日)。

[11] 「お知らせ」『日本経済新聞』2023年3月7日。

[12] 例えば、「退役軍人らの『9割』がスパイ?日経報道に対する台湾各方面の反応とその後の論争」『TNL Media Group』2023年3月17日(https://japan.thenewslens.com/article/3512)(最終アクセス2023年7月15日); 劉彦甫「日経の連載はなぜ台湾から抗議と批判を受けたか」『東洋経済オンライン』2023年3月11日(https://toyokeizai.net/articles/-/658676)(最終アクセス2023年11月24日)。

[13] 「根拠不明」「不正確」などの基準については日本ファクトチェックセンターのものを採用する。日本ファクトチェックセンター「JFCファクトチェック指針」『日本ファクトチェックセンター(JFC)HP』2022年9月27日 (https://factcheckcenter.jp/n/ne2c802afa5e0?gs=a8936398e01b)(最終アクセス2023年8月5日)。

[14] 「台湾、中国のスパイ巡り元国防次官らを調査」『ロイター』2021年7月28日 (https://jp.reuters.com/article/taiwan-military-china-idJPKBN2EY1G4)(最終アクセス2023年9月29日)。

[15] “The Ministry of National Defense issues a press release explaining ‘the media reported that retired Air Force Colonel Liu was involved in a situation in violation of the National Security Law,’”『台湾国防部HP』2023年1月4日(https://www.mnd.gov.tw/English/Publish.aspx?title=News%20Channel&SelectStyle=Defense%20News%20&p=80926) (最終アクセス2023年7月15日)。

[16] 小笠原欣幸「日経台湾特集の何が問題だったのか?」

[17] 2023年11月7日、オンラインにて日経新聞の記者に対しインタビューを実施。

[18] Sadiq Muhammed T and Saji K. Mathew, “The disaster of misinformation: a review of research in social media,” International Journal of Data Science and Analytics, No.13, Feb 2022, pp.271-285 (https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC8853081/#CR5)(最終アクセス2024年2月13日); David M. J. Lazer and others, “The science of fake news,” SCIENCE, Vol. 359, No. 6380, Mar 2018 (https://www.science.org/doi/10.1126/science.aao2998)(最終アクセス2024年2月13日)。

[19] Scott W. Harold and others, Chinese Disinformation Efforts on Social Media, RAND corporation, 2021(https://www.rand.org/pubs/research_reports/RR4373z3.html)(最終アクセス2024年2月13日)。

[20] 日本経済新聞「メディアデータ・読者属性」『日経マーケティングポータル』(https://marketing.nikkei.com/media/newspaper/mediadata/)(最終アクセス2024年2月9日)。

[21] 厚生労働省「高齢化の伸びの鈍化と人口減少(図1-1-8 年齢階級別未婚率)」『令和2年版 厚生労働白書』2020年9月。

[22] 佐香孝「幸福度は最下位 50代男性を襲う『定年前の3つのブルー』」『日経クロストレンド』2021年10月7日(https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00401/00018/)(最終アクセス2024年2月9日)。

[23] みんなエアー「50代男性の幸せな働き方に関する意識調査」『AIR Lab. JOURNAL』2022年8月18日(https://minnaair.com/blog/week2022-expo/#session2)(最終アクセス2024年2月9日)。

[24] 厚生労働省「『更年期症状・障害に関する意識調査』結果」2022年7月26日(https://www.mhlw.go.jp/content/000969166.pdf)(最終アクセス2024年2月9日)。

[25] 高橋麻里恵「50代の消費意識から考える、次なるシニア市場を攻略するためのポイント」『NRI Management Review』Vol.42、野村総合研究所、2020年(https://www.nri.com/jp/knowledge/publication/mcs/m_review/lst/2020/nmr42?year=2020)(最終アクセス2024年2月9日)。

[26] 日本経済新聞「メディアデータ・読者属性」

[27]「ベネッセ側に1300万円賠償命令 個人情報流出で東京地裁」『日経速報ニュース』2023年2月27日。また、当該記事と同日の朝刊46頁には、同内容の記事が掲載された。

[28] アメリカ合衆国のワシントンD.C.を拠点とする無党派・非営利のシンクタンク組織。政治や政策に関する情報調査を始めとする幅広い分野におけるリサーチを行っている。

[29] “Pew Research Center’s Spring 2023 Global Attitudes Survey,” Pew Research Center, July 27, 2023(https://www.pewresearch.org/global/2023/07/27/views-of-china/)(最終アクセス2023年12月6日)。

[30] 内閣府「令和3年度外交に関する世論調査(図7 中国に対する親近感)」2022年1月21日(https://survey.gov-online.go.jp/index-all.html#fy2021)(最終アクセス2023年8月22日)。

[31] 本記事から読者がどのようなナラティブを引き出すかは主観に依るところが大きい。しかし、記事内で9割の退役軍人が中国に対し情報漏洩を行っていると明記されており、台湾の総統府や国防部が直接言及している点から、本稿はこのナラティブを抽出した。

[32] RAND研究所が発表したレポートによれば、中国は台湾政府と台湾軍が弱く腐敗しているというナラティブを流し、台湾政府への信頼性を弱め、社会の分裂を引き起こそうとしているという。Harold and others, Chinese,(2021).

[33] Alvin W. Gouldner, “The Norm of Reciprocity: A Preliminary Statement,” American Sociological Review, Vol. 25, No. 2, pp. 161-178, Apr 1960(https://www.jstor.org/stable/2092623)(最終アクセス2024年3月5日)。

[34] 公益財団法人日本台湾交流協会による台湾人の対日世論調査では、台湾人の77%が日本に親しみを感じており、最も好きな国(台湾を除く)として60%が日本を挙げている。公益財団法人日本台湾交流協会『2021年度 対日世論調査』2022年3月18日(https://www.koryu.or.jp/Portals/0/culture/%E4%B8%96%E8%AB%96/2021/2021_seron_shosai_JP2.pdf)(最終アクセス2024年3月5日)。

[35] 日本人の対台感情に関する調査では、50代の日本人男性の約80%が台湾に親しみを感じており、その理由として「相手の国民性に親しみを感じる」「日本との文化の共有の度合いが高い」「日本と地理的に近い位置にある」といった点を挙げている。笹川平和財団笹川日中友好基金『日本人の中国に対する意識調査の結果について』2022年12月12日(https://www.spf.org/china/news/20221212.html)(最終アクセス2024年3月12日)。また概ね類似する結果を出した調査として以下も参照されたい。一般社団法人中央調査社『日本人の台湾に対する意識調査 2023年』2023年12月18日(https://www.roc-taiwan.org/jp_ja/post/95005.html)(最終アクセス2024年3月12日)。

[36] TSMCの海外進出に関して、サプライチェーンの安定化など、日本と台湾の享受するメリットを強調する論考は多い。一方、一定のメリットを認めながらも、東アジア経済や台湾の安全保障への影響について懸念を示す書籍として、クリス・ミラー(千葉敏生訳)『半導体戦争 世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』ダイヤモンド社、2023年(Chris Miller, Chip War: The Fight for the World’s Most Critical Technology, Scribner: New York, 2022)などがある。

[37] ①情報の不正確さに注意を促す②思考プロセスの論理的誤謬を説明するといった情報教化(Informational Inoculations)は複数の種類の陰謀論的信念に対して有効であるという。Cian O’Mahony ,Maryanne Brassil ,Gillian Murphy ,Conor Linehan, “The efficacy of interventions in reducing belief in conspiracy theories : A systematic review,” PLOS ONE, Apr 2023(https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0280902)(最終アクセス2023年9月30日)。

プロフィール

黒木美里

南山大学社会科学研究科総合政策学専攻博士前期課程2年。防衛大学校国際関係学科卒業。経済安全保障を中心に、国際政治経済学、安全保障学を学んでいる。市民が持つ国際政治への影響力について知見を広めるため、2023年春に実施されたGGR集中セミナーに参加。

坂口聡

東海大学大学院政治学研究科政治学専攻博士前期課程在籍。東海大学教養学部国際学科卒業。国際政治学・外交史を学び、イギリスを中心とした核政策について関心を持つ。国家による戦略的な偽情報の利用について知見を深めるため、2023年春に実施されたGGR集中セミナーに参加。

佐藤正宗

神戸大学海洋政策科学部4年。将来的に官僚として安全保障問題に取り組むことを考えており、非軍事的な分野における安全保障に対して広く興味を有している。情報空間における安全保障や認知戦における偽・誤情報の影響について学ぶために2023年春に実施されたGGR集中セミナーに参加。