選挙制度改革の試みに見る、メキシコにおける民主主義の現在地
箕輪 茂
(鳥取大学教養教育センター准教授)
2023年9月28日
はじめに
メキシコのロペス・オブラドール(Andrés Manuel López Obrador)政権は、2022年から2023年にかけて大規模な選挙制度改革を実施した。大統領はその主たる目的を選挙運営の効率化による経費削減であると主張したが、多くの専門家や市民からは民主的な選挙の実施を困難にし、現政権を支える与党を利することにつながると猛烈な批判が巻き起こった。この改革に対しては数多くの違憲の訴えが提起され、結果的に連邦最高司法裁判所(Suprema Corte de Justicia de la Nación: SCJN)において選挙制度改革に関する法改正は全て無効と宣言されるに至る。
本稿では、一連の選挙制度改革の試みが何を企図したものであり、背景にどのような意図が存在していたのかを明らかにした上で、制度改革の実施と裁判所による法改正無効の判決に至る一連の流れが、メキシコにおける現在の民主主義に対して持つ意味について考察する。
選挙制度改革成立の経緯と概要
今次の選挙制度改革の試みは、2022年4月に大統領が憲法改正案を連邦下院議会に提出したことに始まる。この憲法改正案は、選挙管理機関や選挙裁判所の改組、政党助成金の削減、連邦および地方議会の議員数の大幅な削減など多岐に渡るものであった。
例えば、選挙管理機関に関しては既存の全国選挙機構(Instituto Nacional Electoral: INE)を全国選挙国民投票機構(Instituto Nacional de Elecciones y Consultas: INEC)に改組すると共に、最高意思決定機関の総会の委員数を11人から7人に削減した上で、従来は専門性や選挙運営に関する経験に基づき選出されていた委員を市民の直接投票により選出すると規定した。また、選挙関連の違法行為や不服申し立てを審理する連邦選挙司法裁判所(Tribunal Electoral del Poder Judicial de la Federación: TEPJF)の判事も市民の直接選挙により選出することとされた。さらに、INEの下部組織で各州に設置され、地方レベルで選挙実務を担当する地方選挙公共組織(Organismo Público Local Electoral: OPLE)や、全国5ヶ所に設置されていたTEPJFの地方裁判所が廃止され、地方レベルの実務は選挙ごとに採用される臨時職員が担当し、全ての選挙関連の裁判はTEPJFが一括して審理することとされた[1]。
メキシコでは憲法改正案が可決されるために連邦議会上下両院で3分の2以上の賛成が必要だが、与党連合の議席数は両院で過半数には達しているものの憲法改正に必要な数には達していなかったため[2]、この憲法改正が実現する見込みはなかった。そのため、ロペス・オブラドールは採決前から改正案が否決された際には「プランB」がある旨に言及しており、実際に2022年12月6日に憲法改正案が連邦下院で否決された直後には、同様の選挙制度改革を実施するため選挙関連の手続き法の新設・改正案を連邦下院に即日提出し、翌日未明に可決。上院でも同年12月14日と2023年2月22日に全ての法案が可決され、改革関連法の策定・改正が実現した[3]。
この法改正は、憲法改正案と比較すると変更される範囲はより限定されていたが、選挙運営や選挙における違反行為の処罰の面で多くの問題を含む内容となっていた。INEの機構自体に大きな変化はなかったものの、選挙実務を担う部門が大幅に縮小されることとなった。各OPLEの委員数が5人から3人となり、全国にある300の選挙区毎に構成される地域委員会の専従職員も従来の5人から1人へ減員とされた。また、INEの部局である全国選挙専門機関 (Servicio Profesional Electoral Nacional: SPEN) に所属する職員の数も2,571人から396人へと大幅に削減されることになった。これらふたつの組織は、各選挙区において有権者登録証の発行や選挙区の区割りの基礎となる有権者数などのデータ管理、選挙運営や選挙監視、有権者に対する選挙啓発活動などに協力してあたっている[4]。
また、選挙資金と選挙広報に関する違反行為に対する処罰に大きな変化があった。従来の規定では、法律に違反した候補者に対する罰則は違反行為の重大性に応じて罰金から候補者資格剥奪までが科されていたが、この改正によって資格剥奪の処罰が法律から削除され罰金のみとされた。さらに、従来の法律では公職にある者がその立場を利用して特定の候補者に有利になるような宣伝活動を行うことを幅広く禁止していたが、法改正によって「公的資金を用いた契約に基づき広報を行うこと」を禁止するといった形で、違反類型が非常に限定されることとなった[5]。
改革が内包する問題点とその後の推移
ロペス・オブラドールによると、制度改革を行なった主たる目的は組織改革により無駄を省くことで経費を削減することにあるという。当初の憲法改正の際には、機構改革を含めた大幅な選挙制度改革を行うことで240億ペソ(約2,088億円)の経費削減につながり、その後の法改正においても35億ペソ(約305億円)の経費削減が可能になると主張していた。そして、大統領は「プランB」の法改正によって「経費が大幅に削減される一方でINEの機能には一切影響を及ぼさない」と述べ、選挙運営には何ら影響がないことを強調していた[6]。
しかし、一連の改革の試みには民主的な選挙の実施を阻害し得る問題が数多く含まれていた。成立しなかった憲法改正案では、INEC委員やTEPJF判事を有権者による投票で選出することとされた。これらの職務には高度な専門性と政党や政府などからの中立性が求められるが、このようなポストを投票で選出することは、求められる専門性が軽視される可能性や、組織運営が特定の政治勢力の影響を強く受ける可能性が高くなることを意味する。それは、民主主義体制の存続にとって根幹ともいうべき選挙の「公平性・公正性」[7]に大きな疑念を抱かせることになると危惧された。
また、その後に実施された一連の法改正では、選挙実務を担当する職員数が大幅に削減され、選挙の際には主に臨時採用の職員が実務を担うこととされたが、これは選挙実務の遂行に必要とされる知識や経験の蓄積を阻害し、従来と同じ形で円滑に選挙を実施することを困難にする可能性をはらんでいた。加えて、選挙広報に関する違反類型を限定したことは、大統領や州知事といった公職にある人物が公的予算により実施される政府の社会福祉政策などの成果を特定の政党や候補者の宣伝のために利用することを可能にし、選挙の公平性を害することにつながる。
そして、この法改正で最も批判を浴びたのが、選挙資金と選挙広報に関する違法行為に対して科される罰則から候補者資格剥奪を削除したことである。この改正により、重大な選挙違反を行っても最も重い処罰が罰金に留まるため、違反者が選挙に参加し続けることが可能となり、資金力のある陣営に対しては罰則規定が違反行為の抑止力として機能しなくなることにつながるのである。
そのため、政治学や法学を専門とする研究者から、この改革は「選挙違反を促し、これまで機能してきた組織を変質させるもので、今後の選挙の正常な形での実施を危うくする」[8]ものであり、「メキシコの民主主義にとって歴史的な後退である」[9]と厳しく批判された。また、アメリカ政府や欧州評議会からも、改革によって選挙プロセスの中立性や透明性が害され、選挙結果への信頼が失われかねないことに対する懸念が示されている[10]。
このように多くの問題をはらみ、国内外から強い懸念が示された制度改革に対しては、INEや野党勢力から違憲審査の申し立てが行われた。その結果、SCJNは連邦議会における法案の審議、採決の際に憲法で求められている適正手続に違反があったとして、2023年5月8日と6月22日の判決で全ての法改正を無効と宣言し、選挙制度改革の試みは失敗に終わった[11]。
一連の経緯が持つ民主主義に対する意味
この一連の経緯は、現代メキシコの民主主義にとって、どのような意味を持つのだろうか。
最も注目すべき点は、民主主義を支える手続きに対するネガティブなインパクトの大きさである。メキシコでは、2000年の民主化達成以降も汚職や貧困、人権状況、治安問題など統治の実質面でさまざまな問題を抱え続けている。一方で、選挙制度に関しては、その運用面で課題が山積し改善の余地は大きいものの[12]、全般的には民主主義体制が維持されていると判断できる水準で公平・公正な選挙が実施されてきた[13]。
しかし、大統領主導の選挙制度改革の試みは、メキシコがかろうじて維持している民主的な体制の基盤である手続きを毀損することにつながり得るものであった。成立した改正法が施行された場合、INEの選挙実務を担当する組織が大幅に縮小され、人員不足と経験の蓄積が難しくなることから、不正行為の監視といった機能を十分に果たせなくなる可能性が高まる。それに加えて、違反行為に対する処罰が軽微なものとされたため、それまでも横行していた不正やその不十分な取り締まりといった問題を、改善するどころかより悪化させることは明らかであった。このような状況は、国民からの選挙プロセスとその結果に対する信頼を失わせることにつながるであろうことは言うまでもない。
一方で、一連の流れの中で起きた様々な出来事は、メキシコにおける民主的制度に対する人々の信頼の強さと、それを毀損する試みから民主的制度を守るためのメカニズムが現時点では機能していることを示すものでもあった。
かつて、71年間にわたって事実上の一党支配体制が続いていたメキシコで民主化が達成されるまでの過程において、政府から独立した選挙管理機関の果たした役割は非常に大きかったことが知られており[14]、現在でも他の政府機関等と比較するとINEに対する市民からの信頼度は高い[15]。法案可決後に改革に反対する市民による大規模なデモが全国100以上の都市で実施されたことは、その信頼の度合いを示す一例であろう[16]。
また、改正法の違憲審査の訴えを受けたSCJNが、法案の内容についての価値判断に立ち入ることなく、法律の専門的知見に基づき手続き的瑕疵を理由に違憲判決を出したことは、立憲民主制を支える基本的な制度である三権分立が現時点ではまだ機能しており、市民の権利侵害につながるような恣意的な権力行使を抑制する機能を司法が果たしていることを示していると言えよう。
つまり、現代のメキシコにおいては、政治の領域からは党派的利害に基づき民主的手続きを毀損しようとする試みが行われる一方で、かつての民主化過程の中で構築され、その後も改善が続けられてきたシステムが機能することで民主主義体制の弱体化につながる試みが現時点では抑制されていることを、この一連の流れは示しているのである。
おわりに
ロペス・オブラドールは長年にわたって反対派からポピュリストであるという批判を受け続けてきた。しかし、急進的な政策の実現を主張する一方で、実際には現実的な政策を選択することで支持を広げてきた老練の政治家であるという評価が一般的であった[17]。ところが、今回の改革の試みは、選挙を通じて多数派を形成しているという正統性や特権階級に支配された選挙システムをより民主的にするといった主張を掲げて強行されており[18]、ベネズエラなどで見られるようなポピュリズムが民主主義を侵食する事態につながり得る傾向が垣間見られた。現時点では、そのような意図を覆し民主的手続きを維持するようなシステムが健全に機能していることが示されたが、「プランB」と呼ばれた一連の法改正がSCJNによって無効とされた直後には、与党・国家再生運動(Movimiento Regeneración Nacional: MORENA)党首のマリオ・デルガド(Mario Delgado)や、2024年実施の大統領選挙に同党公認候補として出馬することが決まったクラウディア・シェインバウム(Claudia Sheinbaum)前メキシコ市長らが「プランC」の実現を主張している[19]。MORENAは一般大衆を中心に強い支持を集め続けていることから、同様の試みがメキシコにおける民主主義のあり方を左右するようなことがあるのか、今後の動向を注目し続ける必要があろう。
[1]Claudia Salazar (2022), “La reforma electoral de la 4T a detalle,” Reforma, 28 de abril. (https://www.reforma.com) Claudia Guerrero, y Érika Hernández (2022), “Pretenden reforma ¡a su conveniencia!” Reforma, 29 de abril. (https://www.reforma.com) [2]連邦下院議会では、定数500に対して2021年中間選挙後の与党連合の獲得議席数は281議席に留まる。Claudia Salazar, y Erika Hernández (2021), “Paran a 4T en Congreso,” Reforma, 7 de junio. (https://www.reforma.com) [3]Yared de la Rosa (2022), “Diputados rechazan reforma electoral de AMLO; van por el plan B,” Forbes México, 6 de diciembre. (https://www.forbes.com.mx/diputados-rechazan-reforma-electoral-de-amlo-van-por-el-plan-b/) Georgina Zerega (2023), “El Senado aprueba el “plan B” de la reforma electoral de López Obrador,” El País, 23 de febrero.(https://elpais.com/mexico/2023-02-23/el-senado-aprueba-el-plan-b-de-la-reforma-electoral-de-lopez-obrador.html) [4]INE (2022), “Pronunciamiento de las consejeras y consejeros del Instituto Nacional Electoral (14 de diciembre de 2022),” Central Electoral.(https://centralelectoral.ine.mx/2022/12/14/pronunciamiento-de-las-consejeras-y-consejeros-del-instituto-nacional-electoral-sobre-la-reforma-electoral/) Javier Divany, Karyna Soriano, y Fernando Merino (2023), “Viene ola legal contra plan B,” El sol de México, 3 de marzo. Fabiola Vázquez (2023), “Del #YoDefiendoalINE al Plan B de la reforma electoral,” Gatopardo, 24 de febrero.(https://gatopardo.com/podcast-gatopardo/del-yodefiendoaline-al-plan-b-de-la-reforma-electoral/) [5]Secretaría de Gobernación (2022), Diario Oficial de la Federación, 27 de diciembre, Edición Vespertina, (México: Secretaría de Gobernación).(www.dof.gob.mx/abrirPDF.php?archivo=27122022-VES.pdf&anio=2022&repo=) Secretaría de Gobernación (2023), Diario Oficial de la Federación, 2 de marzo, Edición Matutina, (México: Secretaría de Gobernación).(https://www.dof.gob.mx/abrirPDF.php?archivo=02032023-MAT.pdf&anio=2023&repo=) [6]Zapata, Belén, “¿Cómo es la reforma electoral de México? ¿Qué propone y qué causa controversia?” CNN Español, 15 de noviembre de 2022. (https://cnnespanol.cnn.com/2022/11/15/reforma-electoral-mexico-que-propone-controversia-orix/) Guadalupe Irizar, y Antonio Baranda (2023), “Minimiza presidente impacto de ‘Plan B’,” Reforma, 3 de marzo. (https://www.reforma.com) [7]Guillermo O’Donnell, and Philippe C. Schmitter (1986), Transitions from Authoritarian Rule: Tentative Conclusions about Uncertain Democracies (Baltimore: The Johns Hopkins University Press), p.8. [8]Guadalupe Vallejo (2022), “Advierten que “Plan B” de AMLO da manga ancha a cometer infracciones electorales,” Expansión, 8 de diciembre. (https://politica.expansion.mx/mexico/2022/12/08/advierten-que-plan-b-amlo-cometer-infracciones-electorales) [9]Juan Jesús Garza Onofre, y Javier Martín Reyes (2022), “Una regresión histórica,” Reforma, 29 de abril.(https://www.reforma.com) [10]José Díaz Briseño(2023), “Dice EU observar impacto de ‘Plan B’,” Reforma, 28 de febrero. (https://www.reforma.com)European Commission for Democracy through Law (Venice Commission) (2022), Opinion on the Draft Constitutional Amendments Concerning the Electoral System, CDL-AD(2022)031 (Strasbourg: Council of Europe). (https://www.venice.coe.int/webforms/documents/?pdf=CDL-AD(2022)031-e) [11]Víctor Fuentes (2023), “Sepulta la Corte Plan B de AMLO,” Reforma, 9 de mayo.(https://www.reforma.com) Víctor Fuentes (2023), “Dan en la Corte adiós a ‘Plan B’,” Reforma, 23 de junio. (https://www.reforma.com) [12]箕輪茂(2019)「メキシコにおける2014年選挙制度改革-統治の質改善に対する意義と課題-」『ラテンアメリカ研究年報』、No.39。 [13]V-Dem Institute (2023), Democracy Report 2023: Defiance in the Face of Autocratization, (Gothenburg: V-Dem Institute). [14]INEの前身にあたる1990年創設の連邦選挙機構(Instituto Federal Electoral)を指す。その民主化過程における役割についてはJosé Woldenberg (1999), “La transición a la democracia,” Nexos, Núm. 261. など。 [15]Reforma-MCC (2023), “Se acentúa mala imagen del PRI,” Reforma, 20 de abril. (https://www.reforma.com) [16]Reforma / Staff (2023), “Replican reclamo en 100 ciudades,” Reforma, 27 de febrero. (https://www.reforma.com) [17]豊田紳「腐敗した共和国を救いうるか-メキシコ・国民再生運動と新大統領ロペス=オブラドール-」『ラテンアメリカ・レポート』、Vol.35, No.2。 [18]Editor (2022), “Reforma electoral establecerá una auténtica democracia: presidente,” Sitio Oficial de Andrés Manuel López Obrador, 14 de noviembre. (https://lopezobrador.org.mx/2022/11/14/reforma-electoral-establecera-una-autentica-democracia-presidente/) Zapata, Belén, “¿Cómo es la reforma electoral de México? ¿Qué propone y qué causa controversia?” CNN Español, 15 de noviembre de 2022. (https://cnnespanol.cnn.com/2022/11/15/reforma-electoral-mexico-que-propone-controversia-orix/) [19]「プランC」とは、今次の制度改革を廃止に追い込んだ勢力を次期選挙で打倒した上で、同様の改革を進めることを指している。Mayolo López, y Antonio Baranda (2023), “Atacan morenistas a la Corte por ‘Plan B’,” Reforma, 23 de junio.(https://www.reforma.com)
上智大学大学院国際関係論専攻博士後期課程満期退学。博士(国際関係論)。上智大学イベロアメリカ研究所助手、同大学グローバル教育センター特別研究員などを経て、現在、鳥取大学教養教育センター准教授。専門は比較政治学、メキシコ政治、ラテンアメリカ地域研究。