経済的平穏と貿易協定
出版日2023年1月16日
書誌名Issue Briefing No. 16
著者名パク ジヨン
要旨 2021年10月、インド太平洋地域の豊かで安全かつ開かれ連携した発展を実現するために、そして、クリーンエネルギーなどの21世紀の課題に向けて行動を調整するために、インド太平洋経済枠組み(Indo-Pacific Economic Framework: IPEF)が米国によって提唱された。しかし、期待できる利益が莫大である一方、途上国に対する効果的な経済的成果の欠如がこのフレームワークに懸念を投げかけている。本稿では、世界経済が低迷している中でのIPEFの発足と期待される成果、そして世界経済の低迷が各国の貿易や経済協力に与える影響について、国際政治経済学の理論と実証に基づいて検討する。それにあたって、国際交渉という形での貿易自由化の要求とその実現(国内批准過程)を区別し、その結果として貿易自由化の要求が強まっても自由化が必ずしも自動的に進むわけではないことを示す。
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経済的平穏と貿易協定

―世界経済の状況はインド太平洋経済枠組みにどのような影響を及ぼしうるのか

パク ジヨン
(一橋大学大学院法学研究科専任講師)
2023年1月16日

インド太平洋経済枠組み(Indo-Pacific Economic Framework: IPEF)は、2021年10月に開催された年次東アジアサミットにおいて、ジョー・バイデン米国大統領が初めて提唱した経済構想で、インド太平洋地域における、開かれ、連携し、豊かで、強靭で、安全な発展を実現することを目的としている1。IPEFの初期メンバーであるオーストラリア、ブルネイ、フィジー、インド、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、ニュージーランド、フィリピン、シンガポール、タイ、米国、ベトナムの14カ国で世界のGDPの40%を占めており、この枠組みがもたらしうる利益は莫大である。2022年9月8・9日にロサンゼルスで開催された最初の閣僚級会合では、今後の交渉において探求する4つの中核分野が定められた。インドが貿易分野への参加を辞退したことを除けば、すべての加盟国が今後の会合で全4分野である貿易、サプライチェーン、クリーンエネルギー、そして公正な経済について交渉することに同意した。

IPEFは、クリーンエネルギーやデジタル経済の影響など、21世紀における地域の課題に対して、途上国と先進国が協力して取り組むことを推進するものである。しかし、関税削減や貿易自由化といった貿易協定の伝統的な要素を排除しているため、交渉から途上国への効果的な経済的成果が得られない可能性を懸念する声も多い。具体的な成果不足の可能性と、強制メカニズムに関する明確性の欠如がIPEFに対する懸念の一因となっている。

米国が交渉を主導する意向を示していることが、こうした懸念を強めている。同国の政治的動機は、2022年1月に地域的な包括的経済連携協定(Regional Comprehensive Economic Partnership: RCEP)が発効したことを踏まえ、この分野で中国の政治的・経済的影響力を弱め、IPEFに実力を与えることである。そして本稿の主題である米国がIPEFを主導しようとする第2の政治経済的理由は、バイデン政権がこの地域貿易・経済交渉の機会を利用して、新型コロナウイルス感染症拡大以降の米国経済の苦況に対する国内世論の批判をかわし、暗い経済状況にもかかわらず地域協定が政権維持の可能性を高めるという望みを示すことである。

新型コロナウイルス感染症の拡大とロシア・ウクライナ戦争勃発以来、米国と世界の経済は深刻な打撃を受け、歴史的な困難に見舞われている。さらに、新型コロナウイルスはヒト、モノ、サービスの自由な移動を意図的・非意図的に著しく低下させ、貿易自由化の理想と現実の双方にダメージを与えた。

経済的困難と国家の貿易協力の関係に関する理論的・実証的分析

国際政治経済学の多くの文献は、経済的苦難の中で国家が貿易政策の面でどのような行動を取るかについて論じている。1つの主要な主張は、経済が悪化すると国家はより自由化し、より多くの貿易協定を結ぶことで他国とより協力的になる、というものである。しかし、反対に、経済的に困難な時期になると、国家はより一方的な保護主義的な政策をとるようになるという主張も存在する。

保護主義は反循環的ではない

Maggi and Rodriquez-Clare (1998 and 2007)、Staiger and Tabellini (1999)、 Mitra (2002) などの研究では、経済パフォーマンスが国の貿易自由化政策に負の影響を及ぼすことが示されている。Rose (2012)は、第二次世界大戦以降、保護主義が反循環的でなくなったことを主張している。彼は、関税率の集計、貿易自由度スコア、GATT/WTO紛争解決制度下で発生した貿易紛争など、保護主義の様々な指標を用いて保護主義と経済的困難の間に強い相関がないことを実証的に示している。さらに、Mansfield and Milner(2017)は、不況など経済的に困難な時期に一部の民主主義国家が自由化を進める理由について、理論的な説明をしている。彼らは、政治家が国際貿易協定の交渉と実施によって経済的・政治的利益を得ることができるため、経済的に困難な時期により多くの貿易協定を締結する正当な理由があると主張している。具体的には、交渉の過程を国民に公開することで、国民から景気が悪いことに対する批判を避けることができ、それによって厳しい経済状況下でも政権を維持する可能性を高めることができるのである。

経験的にも、経済的に困難な時期に国家が自由化を進めた例がある。例えば日本は経済不況を克服するために、市場アクセスを拡大し、協定の低い貿易障壁の恩恵を受けるためにTPPへの加盟を決定した。もちろん、各国がTPPに参加した戦略的な理由はさまざまである。しかし、日本が交渉を開始し、完了させる決断をした主な原動力は、経済回復の試みであったことは、明白であったように思われる。訪米した安倍晋三首相(当時)は記者会見で中国の影響力を抑えるためにTPPがいかに重要か聞かれた際、「中国を意識してTPPを作ったわけではない」と答えた2。さらに、「我が国の企業がTPPを十分に活用し、TPPが真に我が国の経済回復につながるよう、しっかりと準備を進めていく」と述べた3。また、TPPはこの回復プロセスのスタートに過ぎず、TPPの先にはRCEP、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)、日EU経済連携協定(EPA)の交渉締結があり、いずれも日本経済の再活性化に向けた取り組みであると指摘した4。これらの例から、経済的に厳しい時期には、困難を克服するために、国家がより多くの貿易自由化措置を取る可能性があることが経験的に明らかにされた。

保護主義は反循環的である

しかし、多くの研究はこの議論に疑問を投げかけ、経済的に困難な時期に国家が貿易障壁を高め、貿易協定に違反する傾向があるため、経済的困難は各国の貿易自由化に負の影響を及ぼすと主張している。Bagwell and Staiger (2003)によれば、この議論には2つの根拠がある。第1の論理的可能性は、国内政治経済と関連しているが、不況時に輸入競争部門からの政治的圧力が国内政治を支配し、その圧力に従って国家は保護主義的になると仮定している。もう1つは、より国際政治経済に密接に関連するもので、不況期に国家間の近隣窮乏化政策の傾向が強まり、政府は保護主義を拡大させるというものである。この流れの中で、McKeown (1984), Gallarotti (1985), Coneybeare (1987), Marvel and Ray (1987), Grilli (1988), Hansen (1990), Bohara and Kaempfer (1991), Mansfield et al. (2016) などの研究もこの議論と一致し、保護主義の平均水準が不況時に上がり、好況時に下がる傾向があると経験的に示している。

この議論を裏付ける経験的な証拠は、歴史的な観点から見るとさらに明白である。古くからの例として、1929年の世界恐慌発生後に米国で成立した1930年の関税法、通称「スムート・ホーリー関税法」5がある。最近の例では、2008年の経済危機の際、米国が関税を引き上げる代わりに、複数のFTAの交渉と批准を意図的に遅らせ、貿易自由化を停滞させたことが挙げられる。当時、ナンシー・ペロシ下院議長は、「新たな貿易協定を成立させる前に、自国の経済のためにもっと努力すべきだ」と発言している6。さらに彼女は、米国コロンビアFTAの批准の遅延は、経済的苦境にある一般のアメリカ人を助けるためにもっと努力するよう政権に迫る努力の一環であり、そうしたニーズが政権によって解決されれば、議会はこの貿易協定を批准するだろうと述べたのである7。これは、経済的に困難な時期に国家が保護主義的になり、外国との多国間貿易協力を遅らせることによって自国経済に集中しようとする例である。

世界的な経済苦難とIPEFの成功

既存の研究は、第一に貿易自由化の要求、第二にこの要求の実施に対する経済パフォーマンスの効果を区別することをしていない。しかし、貿易自由化のこの2つの段階には大きな違いがある。貿易自由化の要求が高まったからといって、自動的に実際の自由化につながるわけではない。つまり、貿易自由化には、各国が交渉して協定を結ぶ段階と、協定を持ち帰って批准する段階の2つの大きな段階があるのである。

筆者は、世界経済のパフォーマンスは貿易協力の需要を高めるかもしれないが、その実施には影響しない、と主張する。各国が経済的に困難な時期に貿易協定を交渉する可能性は高いが、そのような協定の実施に成功するかどうかは世界経済のパフォーマンスには影響されない。経済的に困難な時期には世論が非常に保護主義的になるため、経済的困難は貿易協定の成立に負の影響を与える可能性がある。これをIPEFの成功に当てはめると、新型コロナウイルス感染症拡大による3年間の経済的困難の後にIPEF交渉が開始されたことは、サプライチェーンを広げるために他国との貿易協力を増やすという要求があることを示していることが明らかである。しかし、そのような要求が成功するかどうか、言い換えれば、この交渉が後に全加盟国間で強制力と耐久性のある協定として署名・履行されるかどうかは、国際舞台と国内舞台で展開される2レベルのゲームに依存しているのである。したがって、理論と経験的証拠からすれば、保護主義の拡大と自由化の両方の方向性が考えられるが、この経済的苦難の時期にIPEFを成功させるためには、加盟国の国内政治的支持が不可欠であることを主張する。

新型コロナウイルス感染症のパンデミック、ロシア・ウクライナ戦争、米中対立激化は世界経済を損ない、安定的で自由化されたグローバルサプライチェーンを危うくしている。世界が直面するこれらの国際的な経済的、政治的、社会的課題は、IPEFのような協定を確立することで世界貿易のエコシステムの中で生き残ろうとする各国の行動に影響を及ぼしている。ところが、14カ国の加盟国の中には、IPEFを正式に国内批准する意向を示している国も既に現れているため、この経済的に厳しい時期にさらなる対立や乖離を生み出す可能性があるのである。

 

【翻訳】
スクビシュ ミハウ(一橋大学国際・公共政策大学院 修士課程)
中野 智仁(一橋大学国際・公共政策大学院 修士課程)

 


1. White House, “Readout of President Biden’s Participation in the East Asia Summit,” October 27, 2021. https://www.whitehouse.gov/briefing-room/statements-releases/2021/10/27/readout-of-president-bidens-participation-in-the-east-asia-summit/

2. The White House Office of the Press Secretary. “Remarks by President Obama and Prime Minister Abe of Japan in Joint Press Conference.” The White House President Barack Obama website. April 28, 2015. https://obamawhitehouse.archives.gov/the-press-office/2015/04/28/remarks-president-obama-and-prime-minister-abe-japan-joint-press-confere

3. Fifield, Anna and Simon Denyer. “Japanese leader hails trade deal, says it will boost economy and entire region.” The Washington Post. October 6, 2015.

4. “Press Conference by Prime Minister Shinzo Abe.” Prime Minister of Japan and His Cabinet website. October 6, 2015. http://japan.kantei.go.jp/97_abe/statement/201510/1213579_9930.html

5. この法律により、1930年代前半に2万点以上の輸入品に対してアメリカの関税が引き上げられた。

6.Pelosi, Nancy. “Transcript of Pelosi Press Conference.” Nancy Pelosi website. April 30, 2015.

7.Ibid.

プロフィール

一橋大学大学院法学研究科専任講師。研究関心は国内政治と国際政治経済の交錯。具体的には、国内政治・比較政治学の世論理論と国際政治経済学の貿易理論の双方から、外国との貿易協定に対する個人の意見の変化の背後にある政治的動機を探る研究を行っている。一橋大学への着任前は、2018年から2019年まで東京大学で客員研究員を務めた。学部時代にスミス大学でガバナンスと国際関係を学んだ後、シカゴ大学で公共政策の修士号、ソウル大学で国際学の修士号を取得した。2021年5月にはジョージタウン大学で国際関係学専攻としてガバナンスの博士課程を修了した。