ミャンマーは「ディストピア」か?
ニン・テ・テ・アウン
(一橋大学大学院法学研究科 客員研究員)
2022年8月31日
はじめに
ミャンマー国軍は文民政府に対する優位性、または政治における自らの役割を守るために、一貫して不正選挙を実施してきた。タン・シュエ(Than Shwe)将軍とソー・マウン(Saw Maung)上級将軍が「金メッキの自由化」を1992年に構想していたが、再自由化が始まったのは約20年経った2011年である。ミャンマーの現代史において、不正選挙は珍しくない。
2008年憲法に基づいて実施された2010年の総選挙で、国軍の支援を受けた連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party)が圧倒的勝利を収めたとき、政権は軍事政権から「文民民主主義(civilian democracy)」への移行を宣言した。ここで疑問なのが、国軍に議会での拒否権を与えた2008年憲法の下で、ミャンマーの将来はどこまで国軍によって制約されていたのか、である。そして、2010年から2020年にかけて、ミャンマーが内戦下にあり、国軍支配の精神が文民政府を侵食している間、同国はユートピア期を迎えたといえるのだろうか。
この10年間に、4回の選挙が行われた。しかし、自由化は実質的な結果をもたらさなかった。主な情報源である国営メディアを通じて大規模に偽情報が発信され、厳しい統制が行われた。アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)によると、2011年の改革当初からブロガーや記者、編集者が拘束されてきた。
国軍による情報の独占は新しい現象ではない。国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)が国軍関係者による偽情報の標的となり、選挙結果に影響を及ぼしてきた。2020年の総選挙以来、国軍は自党の議席を取り戻すためにヘイトスピーチの発信を拡大している。
ディストピアン・フィクションとの類似性
振り返ってみると、2011年以降の「文民民主主義(civilian democracy)」と称される時代は、ミャンマーがディストピア化する前段階であったように思われる。ディストピアという言葉は、1950年以降のSFに登場するような、不正や官僚主義、独裁、抑圧的な社会を例示するイメージをもたらす。ディストピア文学は、政治的・社会的な枠組みが人類の未来に及ぼす脅威を浮き彫りにするものである。
最も有名なディストピア小説のひとつに、ジョージ・オーウェル(George Orwell)の『1984年(Nineteen Eighty-Four)』がある。全体主義、監視、検閲とともに実行されるプロパガンダを描いたその小説の影響で、「ビッグブラザー(Big Brother)」や「ダブルスピーク(Doublespeak)」といった単語が一般的となった。つまり、フィクションの中で政治体制の悲劇を描いたのである。ディストピア映画の代表作として、1995年に公開されたウォルフガング・ペーターゼン(Wolfgang Petersen)監督の『アウトブレイク(Outbreak)』もある。これは、1994年のリチャード・プレストン(Richard Preston)のノンフィクション、『ホットゾーン(Hot Zone)』を基に制作されたものである。2020年に新型コロナウイルスが世界中で流行し始めた頃、この1995年の映画を思い出す者も少なくなかったであろう。実際の健康被害をもとに作成されたストーリーでは、ディストピアが病気という姿で映し出されている。
現実にもこのような政治的悲劇や健康被害が起こるのだろうかと疑問に思うかも知れない。残念ながら、現実においても政治的悲劇や健康被害が起こる可能性は高い。ディストピアという言葉は恐怖の下で暮らす社会の例えとして使われ、政府、医療、情報などの面で人々の生活が抑圧される。小説や映画で紹介される空想の世界は、時に現実にも起こってしまう。ファシズムや権威主義が政治的悲劇の典型例である。こうしたなか、独裁政権で最大の焦点となるのは、情報の正確性である。
オーウェルは、人間としての尊厳を失った無力な市民が、常に監視され、思想の自由が制限され、永遠に続くプロパガンダの下で生きている社会を描いている。そのような社会が、2021年2月1日のクーデター以降のミャンマーに見られる。国軍は、民主的に選出された政府が選挙違反を犯したと裁判所に非難させ、追い落とした。NLDの指導者、政治家、ジャーナリスト、活動家らは拘束された。残された民主活動家とミャンマー市民は、民主主義の回復を願い、クーデターに抵抗し、ヤンゴンやマンダレーをはじめとする全国で街頭に出て、拘束者の解放を求めた。反クーデターのスローガンを唱え、映画『ハンガーゲーム(The Hunger Games)』風に指を3本立てて、ディストピア的状況にあって民主派との連帯を示した。現在でもミャンマー市民は人道に対する罪を目撃し続けている。増え続ける死者数と高まり続ける拘留者率は、まさに現実のディストピアである。
ミャンマーでは、2020年の選挙の際や国民統一政府(National Unity Government)、市民的不服従運動、経済政策、感染予防対策などに関してプロパガンダの拡散が見られた。表現の自由は制限され、SNS上で軍事クーデターへの抵抗を表明した市民に対して次々に逮捕状が送られた。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)の報告書によると、ミャンマーの刑務所では、拘禁者がミャンマー国軍の警察や兵士から性的暴力や嫌がらせを受けるという非人間的な状況にすら直面している。軍事政権の主張とは裏腹に、選挙で選ばれた政府を暴力によって転覆させる試みは、現在軍事政権の首相を自称しているミン・アウン・フライン(Min Aung Hlaing)の深く汚い欲望の現れであることは明らかである。
メディアの抑圧と偽情報
2021年2月2日、ミン・アウン・フラインは1年間の非常事態を宣言し、国の安定だけでなく民主主義をも抑圧しようとした。政権奪取からわずか半年後、ミン・アウン・フラインは国軍所有のテレビに出演し、2023年の選挙期間まで非常事態を延長すると宣言した。
クーデターに先立ち、ミン・アウン・フラインとその支持者たちは2020年のミャンマー選挙に関連する偽情報を流し、民主主義を弱体化させようとした。選挙に敗北した独裁者によく見られる手法である。さらに、国軍は宗教問題にまで手を広げ、イスラム教徒ロヒンギャに関するフェイクニュースを拡散して支持を集めようとした。独裁者が偽情報を武器に民主主義を制圧する典型的な事例である。
独裁政権はクーデター直後、オンラインサービスに制限を掛け夜間のインターネット使用を禁止するなど、全国においてインターネットを規制した。新法を制定し、国家安全保障を理由にウェブサイトをブロックしインターネットを遮断した。フェイクニュース、偽情報、誤情報を拡散していたのは主に自分たち自身であったにもかかわらず、である。ヤンゴンでの抗議行動を取材していた日本人の北角裕樹を含むジャーナリストを、フェイクニュースを流したとして告発し、拘束した。抗議行動の弾圧を報道する者は、誰でもフェイクニュース拡散を理由に拘束するということを、独裁政権は市民に思い知らせたかったのである。
こうした状況において、フェイクニュースや偽情報対策のためには独立系メディアの役割が重要になる。困難にもかかわらず、メディア関係者や市民ジャーナリストは、民主ビルマの声(Democratic Voice of Burma)、ミジマ(Mizzima)、ミャンマー・ナウ(Myanmar Now)といったメディアを通じて、現地の情報を記録し、真実を世界に発信して活動している。
ミャンマーにおける経済・医療危機
クーデター当時、ミャンマーにも新型コロナウイルスの第3波が到達していた。しかし、医療従事者はクーデターに抵抗を示したとして、国軍に拘束され、攻撃され、殺害された。国軍は感染症対策に向けた国際支援の必要性を主張していたが、感染者への酸素供給制限を行い、国軍が運営する病院は患者の診断を拒否した。医療崩壊は、政治家、学生、活動家、教師、ジャーナリスト、芸術家など、民主派デモに参加した人々を収容する刑務所にも及んでいる。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ミャンマーの刑務所に600人以上の患者がいると予測している。
世界銀行は、クーデターと感染拡大の二つの危機に直面するミャンマー経済は18%縮小すると予測している。しかし、バンコク・ポスト紙(Bangkok Post)によると、軍事政権の投資・対外経済関係担当大臣アウン・ナイン・ウー(Aung Naing Oo)は、「新型コロナウイルス感染拡大によって大きな損失を受けた企業活動をできるだけ早く回復するよう努力する」と述べたという。さらに、同大臣はジャパン・タイムズ(Japan Times)の電話インタビューに応じ、アジア諸国からの投資について語った。その中で、「このような状況下でも、投資家によるビジネスの継続を期待している。各国政府は自国の投資家に対してミャンマーでの投資やビジネスをしないようにとは発言していないので、外国の投資家は引き続きミャンマーに来るだろうと期待している」と答えた。
なぜ軍事政権はビジネス回復のためにアジア諸国の投資に期待するのか。軍事政権が人権侵害と弾圧を行っているにもかかわらず、なぜ投資家に手を差し伸べることができるというのか。これは、経済崩壊の状況を防ぐための根拠のないプロパガンダに過ぎない。ボイス・オフ・アメリカ(Voice of America)は、2021年にはミャンマー経済が2019年に比べて3分の1に縮小するという世界銀行の警告を紹介している。ザ・スター紙(The Star)によると、日本企業のスズキは、2019年に主に地元市場向けに13,300台を生産した2カ所の工場で生産を停止すると発表した。さらに、法律団体ラライブ(LALIVE)の関係者は、他のアジア諸国の投資家がクーデターによって生じた損失を取り戻すために仲裁手続きに訴える可能性があると主張している。独裁者は、国民や世界に対して嘘をつくことを決して恐れない。
軍事政権は、国家の法律制定、統治、裁判権の権限を持つに値しない。OECDのワーキングペーパー「偽情報に対するガバナンス対応(Governance Responses to Disinformation)」では、偽情報と戦うための政策対応の枠組みとして、広報活動、直接対応、規制・法的対応、メディア・市民政策について論じている。また、偽情報に立ち向かうために、市民ジャーナリストなど独立したメディアを支援することの重要性も強調している。このようなアプローチに反して、軍事政権はジャーナリスト、市民ジャーナリスト、メディアを弾圧し続けている。
現実に存在するディストピア
クーデターによる民主政府の追放から1年半以上が経過した現在でも、ミャンマー国民の将来に見通しがつかない。2020年のミャンマー総選挙でNLDが圧勝し、改革が進めばより良い未来が待っているとミャンマー国民は期待していた。しかし不当な政権奪取は国民にとっての悪夢であった。
ミャンマーの情勢とジョージ・オーウェルの空想の世界は非常に似ている。ミャンマーの情勢はディストピアだ。「ディストピア」は空想の世界を描くフィクションに由来するにもかかわらず、ミャンマーの人々にとっては現実的な概念である。政治危機や厳しい弾圧が進行しており、その現実を証明している。
【翻訳】
田中秀一(一橋大学大学院法学研究科 博士後期課程)
土方祐治(一橋大学国際・公共政策大学院 修士課程)
一橋大学大学院法学研究科客員研究員。市民社会、国際NGO、シンガポールのアドバイザリー会社で9年間の勤務経験がある。客員研究員以前は、透明性を求める市民活動(Citizen Action for Transparency: CAfT – Myanmar)でプログラム・ディレクターとして勤務。それ以前は、ミャンマー抽出産業透明性イニシアティブ(National Coordination Secretariat – Myanmar Extractive Industries Transparency Initiative: MEITI)でプログラムマネージャー、ノルウェー・ピープルズ・エイド(Norwegian People’s Aid)やその他の組織でプログラムオフィサーを務めていた。また、業務を通じて、市民社会組織やその活動家を支援してきた。ミャンマーの政治状況、女性の権利、移行期正義、集団行動、表現の自由に関する記事をビルマ語と英語で執筆している。フィリピンのアルダーズゲート大学(Aldersgate College)で行政学修士号、ミャンマーのダゴン大学(Dagon University)で法学学士号を取得。